足尾鉱毒事件自由討論会 -6ページ目

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・7

前回に続いて、被害農民と加害者である古河鉱業の示談契約に関して、この本が書いている説明を引用します。


「そして、1892~93(明治25~26)年にかけて第1回示談を完結させると、古河側はさらに1894~97(明治27~30)年にかけて、第2回示談(永久示談)を押し付けてきたのである」
「第2回示談は、被害農民が永久に苦情を言わないという、永久に被害農民の権利を拘束してしまおうとするものであった」


「(この)永久示談の推進に、古河側は官憲と結託してさまざまな手段を弄した。同年(明治27年)8月1日の日清戦争の勃発が、古河側に有利に作用したのである」


この説明によれば、被害農民は一旦条件つきで(明治29年6月までに限った)締結した示談契約を、なぜか古河側に強制されて、無条件の永久示談契約に切り替えられたことになります。しかも、その背景に日清戦争があり、そのために被害民がやむなくその強制に従わざるを得なかったというのです。


果たしてこれは事実でしょうか。少し考えると常識的におかしなことだらけです。


いったい、話し合いによって約束を結んだ示談に関して、明らかに不利になると分かっていながら、なぜ被害農民が変更を受け入れるのでしょう。古河側も何で相手が不利になる条件を強制できるのでしょう。考えられないことです。


日清戦争と損害賠償といえる示談金とにどんな関係があるのでしょう。何にもないはずです。


「古河側は官憲と結託してさまざまな手段を弄した」とありますが、県議会議員の仲介で示談をするのに、何でそんなことが可能なのでしょう。一般的には、企業側は加害者責任を認めないはずなのに、古河は責任を痛感して大金を払うというのですから、そもそも低姿勢で交渉しているのです。


永久示談なるものの著者の説明が、いかに矛盾だらけで嘘っぽいかについて、次回から詳説しましょう。


東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・6

岩波新書の『田中正造』と同様、この本もまた、被害民と古河との示談契約について説明しています。
ポイントになる部分を引用します。


「示談契約は被害補償ではなく、徳義上という企業責任をあいまいにした、慈恵的名目のわずかな金額で、被害農民の口と権利行使を封ずるものであった。その示談金額は(栃木県の場合)、1反歩平均1円70銭。栃木・群馬両県の合計は、約10万9,000円であった」


皆さんは、原爆被害、サリドマイドやC型肝炎その他数多くの薬害事件、水俣病その他の公害事件をニュースで知っていると思います。その際に行政や加害企業が被害者に対してどのように対応したかも、よくご存知のはずです。


公害の原点とされる足尾鉱毒事件では、田中正造が議会で最初の質問をする前に、栃木県知事は示談による解決を提起し、加害者の古河市兵衛は加害者責任を直ちに認識し、そのために、今の金銭感覚では10億9,000万円を支出しているのです。
いったい、このような事例のニュースを皆さんはご存知ですか。


被害者への対応として、これ以上誠実な事例はないはずです。
それなのに、「企業責任をあいまいにした、慈恵的名目のわずかな金額で、被害農民の口と権利行使を封ずるもの」と批判するとは、いったい何と的外れなことでしょう。


示談金支払いの対象になった田畑は、1万町歩(1万ヘクタール)という広大さなのです。著者たちに、「1反歩平均1円70銭」だから少ない、とけちを付ける権利がどうしてあるのでしょう。
「会社が潰れてもいいからもっと支払え」というつもりでしょうか。


その翌年の正造の発言とその結果について、この本は次のように書いています。


「1892年5月、正造は第3回帝国議会で・・・再び農商務大臣の責任を追及し、鉱業停止を要求した。この田中の叫びに、明治政府はおろか、被害農民すら耳を傾けなかった」


被害農民は古河に不満をもたなかったわけですから、耳を傾けなかったのは当然のことではありませんか。

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・5

前回に書いた田中正造による虚構については、本文の19ページあたりに著者の東海林吉郎はさらに詳しく説明しています。

この虚構をあばいたのはこの人なので、発言する権利は充分にあるわけです。発表した時期は昭和51年。それまでは学者も研究者もこの嘘を信じきっていたので、相当ショッキングなことだったようです。


荒畑寒村の『谷中村滅亡史』、宇井純の『公害原論』、三好徹の『政商伝』、木本正次の『四阪島』のほか、日本歴史の事典では最も詳細な吉川弘文館の『国史大辞典』も、正造の嘘を完全に真実の情報として読者に提供しているのです。


嘘か本当かを確かめるのはきわめて簡単で、古河鉱業の社史を読めばいいだけです。

当時はほとんど生産能力がない赤字の銅山だった事実が、そこからすぐわかるからです。

しかし、最低限必要な事実調べさえ、みんな怠っていたわけです。


本題に戻りますが、東海林吉郎は、正造が明治30年2月の帝国議会で始めてこの嘘をついたことなどを説明したあと、被害農民の庭田源八の記録である『鉱毒地鳥獣虫魚被害実記』(明治31年)も、正造の嘘に呼応して描かれていること、それが、栃木県知事の布達が長く信じられてきた理由になったことを説明しています。


しかし、東海林は正造の行為については何にも責めていません。戦略的虚構だったと評価しているのです。嘘を言うことは不正行為です。本来は許されることではありません。


私がほんのちょっと調べただけで、前記の庭田源八の記録のほかに、『足尾銅山鉱毒問題実録』(明治30年)という偽情報があり、そこには、「明治13年夏には渡良瀬川の水を飲んだ者の唇が、直ちに紫色になり、洪水による流木で焚き火をした人の顔や手足がたちまち亀裂した」などと書かれてあります。


嘘は嘘を呼び、当時でさえこんな嘘が広まっていたのには、驚きを禁じえません。現代人は正造が正義の人で、絶対に嘘つきではないと思っていますから、罪はさらに大きいといえます。


東海林は戦略的虚構だったといいますが、私は、正造が公害発生年についてまた別の嘘をついているのを見つけました。

彼は、野口春蔵宛の手紙に、「小山八郎の家の庭、下羽田の問屋の近辺、雲竜寺辺、下野田の石川輝吉の庭などが、明治14~15年頃、鉱毒で惨憺たる状態になっていた」と、絶対にあり得ないことを書いています(明治36年9月4日)。


つまり、正造は生来の嘘つきなのです。ですから彼の発言は信用してはいけないのです。それなのに東海林らは正造を絶対者に祭り上げ、その嘘を根拠にして足尾鉱毒事件を説明しているのです。

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・4

「まえがき」から引用をしたい部分はまだあります。


次の文章をあなたはどう思いますか? 


「ちなみに、従来の関係者は、おしなべて、鉱毒被害の顕在化について、明治12,3年に魚類が大量死したことにより、13年または14年、あるいは13年から3年連続に、県令(県知事)の藤川為親が渡良瀬川の魚獲・売買・食用を禁ずる布達を出したという、田中正造による虚構を根拠にしていた」


「このため、銅山の歴史および技術の近代化と密接に関連している被害の顕在化について科学的な整合性を欠き、鉱毒が江戸時代から300年流れ続けていたとする迷妄を生み、結果的には古河の責任はその3分の2に過ぎないという、企業側の論理を支えることになったのである」


この本の著者は、田中正造が公害の発生した時期について、知事が布達を出したという作り話を創作して嘘を言ったという事実を紹介しています。


本来なら、この場合嘘をついた正造を非難しなければいけないのに、その嘘を信じた馬鹿正直な田中正造信者の方を、「企業側の論理を支えることになった」と非難しているわけです。
何とも不思議な論理ではありませんか。


そもそも、著者らがいう「田中正造による虚構」は、すぐばれるようなお粗末な嘘で、調べればすぐ分かりますが、一生涯嘘をつき続けた虚言症の彼の一面の現われに過ぎません。


したがって、「田中正造の発言は信じてはいけない」と、私などは疑ってかかりますが、著者たちは彼の嘘をこの場合だけだと決めてかかり、これ以外は本当だと信じてしまっているわけです。事実を正確に認識する判断能力が全くないことがわかります。


東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・3

「まえがき」からの引用をつづけます。


「明治政府は、日露戦争の開戦準備の一環として、鉱毒問題を治水問題にすりかえ、農民たちの鉱毒反対闘争に対して徹底した弾圧政策をとり、今日の公害問題にも共通する体制と公害企業の癒着構造を、劇的に刻んでいる」


「生涯をかけてこれと取り組んだ田中正造の行動と思想は、人権と環境の問題、さらに反戦・平和の課題を担うものとして、鋭く現代を照射している。
田中正造の思想は、いまあらためて現代に甦らせることが求められているのである」


皆さんは、ここに書かれた文章の意味が理解できますか?
「日露戦争の開戦準備の一環として、鉱毒問題を治水問題にすりかえ」は、絶対に分からないだろうと思います。


著者が勝手にそう書いているだけで、事実とは無関係だからです。


政府が「徹底した弾圧政策をとり」も、全くの嘘です。
明治政府は「農民たちの鉱毒反対闘争に対して徹底した」防止対策をとったので、被害にあった農地は回復しています。これが事実です。


ですから、「今日の公害問題にも共通する体制と公害企業の癒着構造を、劇的に刻んでいる」は、とんでもない創作としかいい得ません。


政府の公害対策が成功したにもかかわらず、これを否定して政府を批判し続けた「田中正造の行動と思想は」、したがって、見当違いのドンキホーテ的なもので、これを「反戦・平和の課題を担うもの」などと認識することは、馬鹿馬鹿しい妄言にすぎません。


「反戦・平和」を唱えればいいと思い込んでいる著者には、左翼の文化人気取りの愚かさが感じられてあきれるばかり。時代錯誤の学者の象徴みたいな趣きがあります。


東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・2

まず、この本の「まえがき」から少し引用し、批判を試みてみます。


「日清戦争による鉱毒被害の激化が、田中正造を指導者とする鉱毒反対闘争を生み、足尾鉱毒問題は明治期後半における最大の社会問題になったのである」


「日清戦争による鉱毒被害の激化」とありますが、なぜ公害と戦争と関係づけるのでしょう。戦争は悪で公害も悪という単純論法を持ってきたお粗末さが、すでにまえがきから読み取れます。


「田中正造を指導者とする」とありますが、私には、田中正造は闘争の指導者だったとはとうてい思えません。


指導者は、野口春蔵などの被害農民であって、被害者でもなく農民でもなく、国会議員に過ぎない正造に指導者の資格などありえないし、彼には指導者になる実力はなかったし、本人もそれを認識している発言をしているからです。


東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・1

昭和59年に新曜社から刊行された、東海林吉郎と菅井益郎のこの共著は、たぶん岩波新書の『田中正造』に次いで読まれている類書だと思います。


東海林吉郎はこの分野では相当よく出来る研究者ですし、菅井益郎は平凡社の『世界大百科事典』の「足尾鉱毒事件』を執筆している、いわばこの分野の権威のような学者だからです。


しかし、私は、この本のサブタイトルの「1877-1984」にひどい誤魔化しがあることを、まず問題にしたいと思います。
その理由は、一つの事件は百年以上続くわけがないのいに、無理やり長期間に引き伸ばしてこの事件を問題にしようと意図しているからです。
1877年は古河市兵衛が足尾銅山を買った年、1984年はこの本の出版年。事件とは何の関係もない数字です。


公害問題が発生したのは1885年頃、公害対策が成功して被害農地が復旧し、事件が解決したのは1903年頃ですから、あまりにも無茶な引き伸ばしをしています。


そもそも「事件」という言葉に百年以上の時間は含まれません。「足尾鉱毒問題の百年」とでもいうのであれば問題はありませんが、「歴史」と事件とは概念が全く違いますから、これを一緒くたにするのは無茶苦茶です。


「百年公害」という言葉がありますが、おそらくこの人たちが広めようと意図したのでしょう。いったいそうまでして、何で古河鉱業を非難しなければならないのでしょう。私には意味が分かりません。


ともあれ、この本もまた、田中正造の言動を善とし、政府や古河側を悪とする馬鹿げた哲学によって書かれているので、具体的にその間違いを指摘していきます。



岩波新書の『田中正造』・13

明治36年の秋には鉱毒被害地が豊作になったので、明治30年の<予防命令なるものは一つも事実に行われ居るものなし>と、古河鉱業の施した公害防止工事の効果を全面否定していた田中正造は困りました。


結局彼は嘘をついてごまかすことにし、次のようなお粗末な作り話を作ってあちこちに宣伝し、世間を丸め込もうとしました。


「昨年(明治35年)9月の風雨の際、渡良瀬本支流の水源の諸山岳広く崩壊せしため、ほとんど50年分の山土を被害激甚地に布置して旧毒土を覆い・・・」(明治36年10月14日付け石川半山宛の手紙)


「南北10里の山崩れにより、沿岸に新土数尺が一時に来たり・・・」(同月23日付け島田三郎宛の手紙)


「10里以上の山々崩れ、新たなる山土が天然の新肥料となり、・・・例年の5倍の豊作となりとせば、いかなる愚鈍いかなる馬鹿にも新土のためなるを解し得て、今は3歳の小児といえども予防工事のためでないと認めたれば・・・」(同月29日に配布した印刷ビラ)


こんな自然現象は絶対にありえませんし、嘘だということがすぐ分かる、あまりにも馬鹿馬鹿しい話です。
それに、農民たちは目の前で何が起こっているのかわかるわけですから、彼らまでだますわけにはいきません。
それなのに、正造は何でこんなお粗末な話をでっち上げたのでしょう。不思議です。


当時の農民たちは、いずれにせよ「田中正造はまた嘘ついた」ぐらいに軽く受け取ったでしょうが、正造に洗脳された昭和に生きる学者たちは、この話を頭から信じてしまいました。
由井はこの本に次のように書いています。


「明治35年の大洪水は、10里にわたる山崩れによって鉱毒に侵されない新土を沿岸にもたらしたため、36年10月の収穫期にはまれにみる豊作をもたらした」


「このことが、政府や古河派のいう予防工事は功を奏したとする宣伝を信ずる被害民を生みだし、彼らによって鉱毒被害を防げるかのような幻想を与えたのである」


田畑がなぜ豊作になったかを実体験したのは当の被害民です。由井は正造の作り話にすっかりだまされていることに気づかず、その当事者に対して政府や古河にだまされていると平気で断言しているのです。なんという思慮を欠いた、お粗末な頭の持ち主なのでしょう。


岩波新書の『田中正造』・12

正造の直訴により一時的ですが世論が盛り上がったため、政府に第2次の「鉱毒調査委員会」が設置されました。明治35年3月のことです。


そして、足尾銅山で実施された日本で最初の公害防止対策が果たして効果があったのかどうかが、調べられました。


その調査結果は、翌明治36年5月に、第15帝国議会に報告されました。著者の由井は、この歴史的事実を次のように説明しています。


「調査委員会は、作物に被害を与える銅分は、30年の鉱毒予防命令以前に銅山から排出されて銅山付近および渡良瀬川の河床に残留するものが大部分で、現在の操業によるものは比較的小部分に過ぎないとして、古河鉱業の責任を解除した」


そして、説明はこれだけで、この政府の結論は正しいとも間違っているとも主張していません。


前述のように、由井は正造の判断と一体ですから、ここで、確個とした理由をつけて、「この調査結果は間違いである」といわなければいけません。たぶんそれが不可能だったので、反対できなかったのでしょう。


正造や由井にとってもっと都合が悪いことに、それからまもなく、明治36年10月になると、渡良瀬川沿岸の鉱毒被害地は、例年にないほどの豊作になるのです。


全集の別巻の年譜には、「鉱毒被害地の稲豊作」とか、「(正造が)演説会10回のうち8回に被害豊作の実況などとと題して演説」、と書いてあります。

岩波新書の『田中正造』・11

前回述べたように、明治34年の秋には公害防止工事の効果が現われ、被害民の反対運動も以来消滅しましたが、12月10日、正造は明治天皇への直訴を敢行するのです。

たった一人の氾濫でした。


直訴状には、鉱毒のために「数十万の人民のうち、飢えて食なく病んで薬なきあり」とか、「肥田沃土は今や黄茅白葦、満目惨憺の荒野となれり」とか、「数十万の無告の窮民空しく雨露の恩を希うて干天に号泣する」など、最大級の形容詞で被害の過酷さが書いてありました。


明らかに、これは明治天皇への虚偽報告です。なぜこんな失礼を敢えてしたのでしょう。
正造の研究者たちも、公害防止工事の結果田畑が復旧していたことを否定するわけにはいかなかったのでしょう。彼らは、正造の直訴は「公害反対運動を活性化させるのが目的だった」との新説を唱え始めました。


由井正臣も同様に田畑の復旧を否定できず、この新説にも従わざるを得なかったのでしょう。岩波新書に次のように書いています。


「鉱毒世論の盛り上がりをとらえ(当時川俣事件の2審の裁判中で、新聞報道も盛んだった)、直訴という死を賭した行動によってこの世論をいっきょに国民的なものにしようとしたところにその狙いがあった」


実際、この直訴によって世論は一時的に盛り上がりました。しかし、それは東京においてであって、現地の農民たちの公害反対運動は、再発しなかったのです。
正造の意図は全く外れました。のみならず、翌々年の秋には、彼にとってもっと不都合な事態が招来します。