岩波新書の『田中正造』・12 | 足尾鉱毒事件自由討論会

岩波新書の『田中正造』・12

正造の直訴により一時的ですが世論が盛り上がったため、政府に第2次の「鉱毒調査委員会」が設置されました。明治35年3月のことです。


そして、足尾銅山で実施された日本で最初の公害防止対策が果たして効果があったのかどうかが、調べられました。


その調査結果は、翌明治36年5月に、第15帝国議会に報告されました。著者の由井は、この歴史的事実を次のように説明しています。


「調査委員会は、作物に被害を与える銅分は、30年の鉱毒予防命令以前に銅山から排出されて銅山付近および渡良瀬川の河床に残留するものが大部分で、現在の操業によるものは比較的小部分に過ぎないとして、古河鉱業の責任を解除した」


そして、説明はこれだけで、この政府の結論は正しいとも間違っているとも主張していません。


前述のように、由井は正造の判断と一体ですから、ここで、確個とした理由をつけて、「この調査結果は間違いである」といわなければいけません。たぶんそれが不可能だったので、反対できなかったのでしょう。


正造や由井にとってもっと都合が悪いことに、それからまもなく、明治36年10月になると、渡良瀬川沿岸の鉱毒被害地は、例年にないほどの豊作になるのです。


全集の別巻の年譜には、「鉱毒被害地の稲豊作」とか、「(正造が)演説会10回のうち8回に被害豊作の実況などとと題して演説」、と書いてあります。