岩波新書の『田中正造』・13 | 足尾鉱毒事件自由討論会

岩波新書の『田中正造』・13

明治36年の秋には鉱毒被害地が豊作になったので、明治30年の<予防命令なるものは一つも事実に行われ居るものなし>と、古河鉱業の施した公害防止工事の効果を全面否定していた田中正造は困りました。


結局彼は嘘をついてごまかすことにし、次のようなお粗末な作り話を作ってあちこちに宣伝し、世間を丸め込もうとしました。


「昨年(明治35年)9月の風雨の際、渡良瀬本支流の水源の諸山岳広く崩壊せしため、ほとんど50年分の山土を被害激甚地に布置して旧毒土を覆い・・・」(明治36年10月14日付け石川半山宛の手紙)


「南北10里の山崩れにより、沿岸に新土数尺が一時に来たり・・・」(同月23日付け島田三郎宛の手紙)


「10里以上の山々崩れ、新たなる山土が天然の新肥料となり、・・・例年の5倍の豊作となりとせば、いかなる愚鈍いかなる馬鹿にも新土のためなるを解し得て、今は3歳の小児といえども予防工事のためでないと認めたれば・・・」(同月29日に配布した印刷ビラ)


こんな自然現象は絶対にありえませんし、嘘だということがすぐ分かる、あまりにも馬鹿馬鹿しい話です。
それに、農民たちは目の前で何が起こっているのかわかるわけですから、彼らまでだますわけにはいきません。
それなのに、正造は何でこんなお粗末な話をでっち上げたのでしょう。不思議です。


当時の農民たちは、いずれにせよ「田中正造はまた嘘ついた」ぐらいに軽く受け取ったでしょうが、正造に洗脳された昭和に生きる学者たちは、この話を頭から信じてしまいました。
由井はこの本に次のように書いています。


「明治35年の大洪水は、10里にわたる山崩れによって鉱毒に侵されない新土を沿岸にもたらしたため、36年10月の収穫期にはまれにみる豊作をもたらした」


「このことが、政府や古河派のいう予防工事は功を奏したとする宣伝を信ずる被害民を生みだし、彼らによって鉱毒被害を防げるかのような幻想を与えたのである」


田畑がなぜ豊作になったかを実体験したのは当の被害民です。由井は正造の作り話にすっかりだまされていることに気づかず、その当事者に対して政府や古河にだまされていると平気で断言しているのです。なんという思慮を欠いた、お粗末な頭の持ち主なのでしょう。