足尾鉱毒事件自由討論会 -8ページ目

正造の晩年の孤立・14

「自分だけが正しい」という思い込みを、正造はとにかく人に訴えたかったようです。普通の人なら他人に分かってもらえなくても仕方ないと思うはずですが、幼稚な精神構造を持ったこの人には、どうしても自分を偉く見せたかったのでしょう。


大正元年9月8日、自分の姪である原田たけ子に宛てて、自分は20年も関東一円の人民を救うために努力してきたのに、世間はそれを認めないと嘆くと同時に、それでもへこたれていないと強がって見せた手紙を書いています。


「今は正造ただ一人にして、関東5州、上野、下野、常陸、下総を救わんとするにありて、歳月20年、今は人民もまた正造の心を知らず、ますます正造を疑って信ぜず、かえって行為を賤しめるもの十のうち八、九なり」


「しかも不思議なるかな、正造今日の無事なるを得る。この9ヵ年、10ヵ年、何を食せしか、何を着て寝しか、どこに居りしか、自ら既往の経過を知らず」


その翌月の同年10月25日、同じたけ子に宛てて、自分は立派な生き方をしてきたが矢はすでに尽きた、けれども心は安泰だという強がりを見せる、矛盾だらけの手紙を出しています。


「正造は常に東西に奔走して10年、定まれる家なし。乞食の風采たり。しかも救いの道に尽くせり。善事の伝道に努めり。進んで無限の細大四面の悪魔と戦い、下級宗教心の実行に努めり。・・・数十年人道の戦いに倦まず、退かず。しかも刀はすでに折れたり、矢はすでに尽きたり。しかもなお心に恐るる所なし。ありがたし、ありがたし」


大正2年8月2日、栃木県足利郡吾妻村の庭田清四郎宅で倒れて死の床に就きますが、8月13日、島田宗三に正造はこんなことを言いました。


「この正造はな、天地と共に生きるものである。今度倒れたのは、安蘇、足利(郡)の山川が滅びたからだ。・・・ですから<山川擁護会>をつくるよう、安蘇郡有志の近藤貞吉君あたりへお話ししなさい。もしそれができなければ、遺憾ながら正造は、安蘇、足利の山川と共に滅びてしまう。死んだあとで棺を金銀で飾り、林檎で埋めても、そんなことは正造の喜ぶところではない」(島田宗三著『田中正造翁余禄』)


彼は、最後には誇大妄想に取り付かれて、聖人になったとでも思ったのでしょう。

正造の晩年の孤立・13

孤立の深まりと近づく死とともに、正造は、「世の中はみんな間違っているが自分だけは正しい」という思い込みを、いや増していきました。

明治45年2月4日に、土屋七蔵宛の手紙で正造は次のように書いています。


「雪は白し、南天の実は赤し。人々の心もかくさえあれば泰平にして、皆々無事満足に暮らせるものを。何とも黒き雪を降らせることの多き今の世の有様なれば、一層万事にご用心のほどを。栃木町方面より、無野心生」


自分は野心がなく、白い雪のような人間だと自己宣伝していますが、何とおめでたい人でしょう。


明治45年4月5日には、栃木県安蘇郡界村の永島礼七・糸井藤次郎、役場職員に宛てた手紙に、栃木県人に対して次の不平不満をぶつけました。


「嗚呼、栃木県は10年の以前に人心は滅び、今は形も滅びたるを知らざれば、あわれにも気楽な顔しているものなり。佐野町の人々よ、宇都宮の人々よ、足利の人々よ、小理屈と我利我利論の楽観のみの論はあれども、まじめに研究せられた涙の調べは少しもない。栃木方面にて、沿岸回復運動員より」


自分は何かを真面目に研究しており、堕落した栃木県人を回復させる運動もしているというのです。


真面目な仕事をしてお金を稼ぐことをせず、自分の妻さえ養えないため彼女を家から出して自活させ、自分の生活費はすべて他人から恵んでもらっているという乞食のような人間が、いったいどうして渡良瀬川の沿岸人民を救済できるのでしょう。

正造の晩年の孤立・12

孤立を深めた正造は、「教えんとして失敗せり」という反省などどこ吹く風、谷中の残留農民たちの普段着にまで文句をつけます。


大正元年11月17日に、島田宗三や川島要次郎に宛てた手紙はこうです。


「とにかく、ありのままをよしとす。作るはよろしからず、なかんずく、谷中人民の衣服は仮小屋相当を要せり。仮小屋で錦衣を着てはおかし。間明田粂治氏この間の装いは谷中の残留農民の風采でない。町場の商人体に見えた。染宮氏は相応に見えました」


孤立が深まるとともに、自分は農民の指導者であるという幻想が、ますます強くなっていったようです。
大正2年2月4日に東京の巣鴨館から島田、川島宛に出した手紙になると、もう教祖のご託宣になっています。


「日本死しても天地は死せず、天地と共に生きたる言動をもってせよ。天地と共に久しきに答えよ。今はまずこの老いた不肖の言を信ぜられよ。よく信ぜば復活疑いなし。この言を疑えば復活せず。見よ、既往より見よ。日本政治家の浅薄、13ヵ年以前より予の忠言を信ぜずして、未だ悟らずして今日の有様なり」


「自分の忠告を聞かないから日本の政治は駄目になった」との発言は、正造という人間のお粗末さ加減をよく示していますが、この誇大妄想ぶりは、同日に出した逸見斧吉への手紙にも次のような文章で繰り返されています。


「正造断言す。今日の形勢といえども、予の投薬一ぷくを国家が用いるときは、百病直に全快せん。人心たちまち復活、20億の負債といえどもまたかくのごとき無算極まる悲観なしです。けれどもけれども、嗚呼、予は政治家にあらざるなり」


それにしても、自分を全く客観視できない正造という人は、何とおめでたいお馬鹿さんなのでしょう。


正造の晩年の孤立・11

「正造も去る37年以来教えんとして失敗せり」と反省しながら、彼はその後も谷中の青年たちにお説教をしつづけます。おそらく彼にはこれ以外に彼らと付き合う手段を持たなかったのでしょう。若い時以来ずっと、現実離れの政治的思想を上段から発言してきた人ですからね。




明治45年4月5日、島田宗三、川島要次郎、竹沢房之進他青年会御中という宛名で、栃木町の金半旅館から次の手紙を出しています。

「春はねむし。たとえ眠くとも忍んで御さとしあれ。たとえ馬鹿にされるとも御さとしあれ。たとえ空腹になるとも忍んで、人に頭コツコツヤラレルとも忍んで、この憐れの人々と見れば教えて救いたまえよ。殺さるるまで忍んで救いたまえ」


「見よ。3歳の小児将に井戸に落ちんとす。また、犬に噛まれんとす。これを近く馳せ寄り急ぎ救うは道なり。人情なり。諸君、疑うことなくしてこの道の実践を祈る。・・・諸君、必ず大実践を持って、精神をもって御救いに御尽力あれよ。正造感あり。嗚呼、天に尽す何の憚る処がある。以上、頓首敬白」


「人を救え」といわれた農民たちは、いったいどうすればいいのでしょう。戸惑うしかないはずです。
そもそも、まともな仕事を何もせず、人を救うためだといってあちこち出回って他人の家に泊めてもらい、食事のご馳走になって暮らしを立てていた正造が、いったい人を救えとお説教する資格が、どうしてあるのでしょう。


それから2ヵ月後に同じ青年たちに宛てた次の手紙(大正元年9月9日、東京から)になると、「いったいあなたは何様なの」と叱り付けたくなります。


「人道を全うしてはじめて神の道に入る。1日人道を学べば神の道に行くの一里塚なり。実行実行。いたずらに書物の上に達するも実行に及ばざれば、ただに知識の人にして、未だもって真人というべからず。努めよや努めよや」

正造の晩年の孤立・10

翌明治44年3月20日には、受け取り手のない無駄な陳情書(「元谷中村土地回復の要求」)を書いて、これをまた暗記せよと竹沢庄蔵、竹沢房之進、島田熊吉、島田宗三に宛てて手紙を出しています。


「請願陳情書類は10ぺんも100ぺんも200ぺんもご暗記なさるべく候。島田、永野、間明田、左山、宮内、川島、渡辺の諸氏にもおすすめ下さるべく候。東京より」


田中正造はまた、まるで宗教家になったように、次第に神や悪魔にどう対処するかといった神秘的なお説教も始めます。
明治44年6月27日、竹沢庄蔵他9人の青年に東京から送った手紙に、彼は次のように書きました。


「正直な人の頭には神様もやどります。強い正直には強い神がやどり、弱い正直には弱い神様がやどります」


「悪魔が身体に入れば悪人となる。悪魔が悪人をこしらえるから、悪魔退治は心でやらねばならぬ。神様さえ信じれば悪魔は逃げ去ります。こちらが正直で強ければ悪魔は寄り付きません。少しも怖るることはないのです。ただ油断なさると悪魔に取り付かれる。何よりご用心です」


しかし、こんな難しい抽象的な事柄を、谷中村の青年たちに理解できるでしょうか。
どうやら、彼らは拒絶反応を起こしたようです。東京の逸見斧吉方から谷中の島田宗三に宛てた正造の次の手紙(明治44年7月19日付け)を見てください。


「正造も去る37年以来教えんとして失敗せり。最初より人民のはなしを聞かんことに努めればよかりしに、聞くことは後にしてひたすら教えんと計り、取り詰めたり。せき込めばせき込むほど反動して、正造の申すこと聞く人もなくして空しく徒労となり・・・」

正造の晩年の孤立・10

翌明治44年3月20日には、受け取り手のない無駄な陳情書(「元谷中村土地回復の要求」)を書いて、これをまた暗記せよと竹沢庄蔵、竹沢房之進、島田熊吉、島田宗三に宛てて手紙を出しています。


「請願陳情書類は10ぺんも100ぺんも200ぺんもご暗記なさるべく候。島田、永野、間明田、左山、宮内、川島、渡辺の諸氏にもおすすめ下さるべく候。東京より」


田中正造はまた、まるで宗教家になったように、次第に神や悪魔にどう対処するかといった神秘的なお説教も始めます。
明治44年6月27日、竹沢庄蔵他9人の青年に東京から送った手紙に、彼は次のように書きました。


「正直な人の頭には神様もやどります。強い正直には強い神がやどり、弱い正直には弱い神様がやどります」


「悪魔が身体に入れば悪人となる。悪魔が悪人をこしらえるから、悪魔退治は心でやらねばならぬ。神様さえ信じれば悪魔は逃げ去ります。こちらが正直で強ければ悪魔は寄り付きません。少しも怖るることはないのです。ただ油断なさると悪魔に取り付かれる。何よりご用心です」


しかし、こんな難しい抽象的な事柄を、谷中村の青年たちに理解できるでしょうか。
どうやら、彼らは拒絶反応を起こしたようです。東京の逸見斧吉方から谷中の島田宗三に宛てた正造の次の手紙(明治44年7月19日付け)を見てください。


「正造も去る37年以来教えんとして失敗せり。最初より人民のはなしを聞かんことに努めればよかりしに、聞くことは後にしてひたすら教えんと計り、取り詰めたり。せき込めばせき込むほど反動して、正造の申すこと聞く人もなくして空しく徒労となり・・・」

正造の晩年の孤立・9

島田宗三たち谷中村の農民への手紙は、正造の思想を学べという類のものばかりです。


明治43年3月23日、正造が数々の請願書や陳情書を作って反対しようと試みましたが、谷中村の遊水池化を含む渡良瀬川改修計画案は議会を通過しました。


同月26日、正造は主だった村人たち数人に、東京から次のような手紙を出します。


「遊水池、鉱毒沈澱池となることに決議はできた。馬鹿な決議はできた。けれども谷中は谷中の権利がある。驚くなかれ。狼狽するなかれ」


これだけなら村民を勇気付ける内容なのでうなづけますが、彼はこの日、彼らに対してもう一通の手紙を出し、そこに次のように書きます。


「本年の請願書を、朗読研究再三のみならず、数十ぺん数百ぺんにても、毎日毎日読むことを青年諸君にお申し渡し下さるべく候。精々お勧め下さるべく候。暗記のできるまで研究を要します。他の村々への教師になるので必要がある。自分で自分の心を読むのであります」


谷中村の遊水池化を阻止する手段は無くなったので、今度は村民たちに精神論を吹き込んだわけです。
明治43年8月27日、東京にいる正造は、川島要次郎、間明田登一、島田宗三たち8人に宛てて、次のように書きました。


「人を救わんとせよ。人を救わんとせば進むなり。救わるる身をもって救わんとするは、生きたる働きなり。生きたる働きは生きるものなり。右は老荘青年3者にしかるべくお伝え下さるべく候」
「赤手を持って人を救わんとせば即ち救うの道なり。ただし、我を忘れて先ず人を救うは、即ち我が身の併せ救わるるの道と存じ候」


それから十数日後の9月11日には、島田熊吉、宗三、川島要次郎、竹沢庄蔵他青年会員宛に、正造は次の手紙を書いています。


「おのれを忘れて他人を救わんとせば、おのれまた自然神に救わるるなり。しかるを人に救われんとせば、神は傍観せり。諸君にはなおこの上とも救い主の一人となられん事を厚く祈り上げ候」


生活費のすべてを他人から恵んでもらう乞食同然の生き方をしながら、正造は立ち退きを迫られている貧しい百姓たちに、「人を救え」と遠くから手紙ではっぱをかける。「人に救われんとせば、神は傍観せり」という台詞を、彼はどう解釈したのでしょう。

正造の晩年の孤立・8

明治43年の1月に、正造はなぜか同じような自己反省の手紙を斧吉に2通出していますが、まずこれを紹介しましょう。一つは宇都宮から、もう一つは下野村役場から出しています。


「脳が疲れて前後いたします。逸見様と先日孔子の話の時、私卒然として孔子を指して俗物の聖なりと申せしは、全く失言です。俗事を行う聖人と言えばよろしいのです。いったい、私多年政談で過激の言葉をもってせし悪弊で、たびたびこの失言が多いことを、今更思い当たりました。しかれども過ちは改めんと努めますから、何分・・・」(8日付け)


「わたくし久しく俗事に苦慮して、この2,3ケ月トンダ俗物となり、イヨイヨ俗化いたして自ら驚くほど困ります。これよりまた聖書の一節も謹読いたしたいと存じます。・・・正造も今は自分で知れるほど俗人になりましたから、今後早く出京してまたまた汚れを洗いたいです。一昨夜の夢の中に菊枝様(斧吉夫人)に何か叱られる所を見まして心配でした。またまた改めて精々いたします」(21日付け)


翌44年8月8日、佐野の斉藤という家から斧吉に宛てて正造は次の手紙を出しています。


「正造は従来、物質上の霊物に感ずる事狂人の如し。あるいは樹を愛し、あるいは石を愛し、山を愛し、川を愛し、しかして人に到らず。近頃ようやく人を愛することの教えを受けて、人を愛するに到って無形の霊に介す。およそ人を愛する近道に入りしは、貴下および諸兄の厚き賜物なり。今や、この神仏の境に入れば、たちまち物質の霊を忘る」


孔子のことを聖人とか俗物とか決め付けようとしたり、この2,3ケ月で俗物になったが聖書を読んで聖人に戻りたいとか、狂人の如く樹を愛しているとか、人を愛せなかったのにあなたのお陰で愛せるようになったとか、なんともくだらない話ではありませんか。こんな子供じみたことを言うようでは、たいした人物ではないことがすぐわかります。


正造の晩年の孤立・7

最晩年まで正造を見捨てなかった逸見斧吉や島田宗三さえ、彼にはっきりと反対の意志表示をしていた事実を紹介しました。


しかし、この両者に対する正造の対応は、全く異なりました。困った時にはいつでもお金を恵んでくれていた斧吉にはしきりに自己反省のポーズをとりましたが、貧乏な農民にすぎない宗三やその仲間たちには、死ぬまで上からのお説教を続けたのです。


明治の終わり頃からの斧吉宛の正造の手紙を、何通か紹介します。


まず、逸見斧吉が、「谷中村の百姓のために麦の種を買ってやってほしい」と言ってお金を送ってきたとき、自伝の冒頭で「予は下野の百姓なり」と豪語していたはずのこの男は、日本橋の静岡屋という旅館から斧吉に、次のような礼状を書くのです。


「わたくし智恵が少ないのです。毎年、麦蒔きに種のない人があるということを、はじめて知りました。ああ、正造はいまだ富豪の子で、神の子でない。貧者の情に暗い。・・・下情を知るの難きこと、この一事にても分かるのです。5ヵ年以上も谷中にいて、この一事に考えが及ばぬのには、いやはや呆れ、とんと恥じ入るのです」


この8月30日まで、栃木県立博物館で、「予は下野の百姓なりー新聞に見る民衆政治家・田中正造ー」展が開かれていました。

9月20日からは、横浜の日本新聞博物館で同様の展覧会が開催されます。


しかし、彼は本当に「百姓」の心を持っていたでしょうか。

正造は名主の家の長男に生まれ、若い時は名主役を勤めていたので、「百姓」とはいえません。

実際はこの手紙に書いたように「富豪の子」にほかなりません。貧者のことも下情のことも知らないというのが本音のはずです。

上記の展覧会の主催者たちは、正造の言葉だけを信じて騙されているのです。


正造は「5ヵ年以上も谷中にいて」と書いていますが、これも変です。実際は、ほとんど東京他各地に出かけているので、谷中にいることはあまりないからです。

正造の晩年の孤立・6

逸見斧吉や島田宗三が止めたいと思っていた裁判については、正造は谷中村の若者たちに次のように説得していました。


引用は、明治45年4月3日に正造が島田宗三、川島要次郎、島田平次へ宛てて書いた手紙です。


「予は裁判を欲したるものにあらざることは、すでに幾回にも及んで話せり。しかれども失策なりとて降参とならば残留民の生命如何。社会は悪魔の世となり、日本はすでに危うく、すでに下野は亡びつくし、今下野に山もなし、川もなし、ただ工事泥棒のみ」


「誰一人谷中に同情する人もなく、独り狼狽、この8,9年。来る8日の公判なかなか危険。弁護士無報酬にして義人にもあらず、判事の鼻息をうかがうはむしろ弱き人々の常なりとす。来る8日、貴下にも不肖も保佐人を付して自身弁論の決心をも要します。天は自ら助くる者を助く。退くなかれ。精神の存せるところ神あり」


この月の20日に判決があって勝訴はしましたが、補償金が少し増えただけで実質的な成果は何もありませんでした。


翌大正2年1月5日、島田宗三は東京の逸見斧吉の家にいる正造に宛てて、本音がよく現われた次の手紙を出しています。


「思えば思うほど、裁判なぞで争うほど馬鹿なことはないとばかり考えられて来るのです。要するに裁判を起こした動機が誤ったのですから、これに伴う万事の仕事は皆無用。かえって根本に対する有害のもののみに候わん」


「はたして然らばその間違った裁判を止して如何するかと問われる時、私は如何したらよいかほとんどその道が知れませぬ」


「こんな世の中で裁判へなぞコツコツの調べを出し、証明なぞを集めてコツコツ争うほど愚かな話はありますまい。これも<始めたことだから>と思ってやっているような次第です」