東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・5 | 足尾鉱毒事件自由討論会

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・5

前回に書いた田中正造による虚構については、本文の19ページあたりに著者の東海林吉郎はさらに詳しく説明しています。

この虚構をあばいたのはこの人なので、発言する権利は充分にあるわけです。発表した時期は昭和51年。それまでは学者も研究者もこの嘘を信じきっていたので、相当ショッキングなことだったようです。


荒畑寒村の『谷中村滅亡史』、宇井純の『公害原論』、三好徹の『政商伝』、木本正次の『四阪島』のほか、日本歴史の事典では最も詳細な吉川弘文館の『国史大辞典』も、正造の嘘を完全に真実の情報として読者に提供しているのです。


嘘か本当かを確かめるのはきわめて簡単で、古河鉱業の社史を読めばいいだけです。

当時はほとんど生産能力がない赤字の銅山だった事実が、そこからすぐわかるからです。

しかし、最低限必要な事実調べさえ、みんな怠っていたわけです。


本題に戻りますが、東海林吉郎は、正造が明治30年2月の帝国議会で始めてこの嘘をついたことなどを説明したあと、被害農民の庭田源八の記録である『鉱毒地鳥獣虫魚被害実記』(明治31年)も、正造の嘘に呼応して描かれていること、それが、栃木県知事の布達が長く信じられてきた理由になったことを説明しています。


しかし、東海林は正造の行為については何にも責めていません。戦略的虚構だったと評価しているのです。嘘を言うことは不正行為です。本来は許されることではありません。


私がほんのちょっと調べただけで、前記の庭田源八の記録のほかに、『足尾銅山鉱毒問題実録』(明治30年)という偽情報があり、そこには、「明治13年夏には渡良瀬川の水を飲んだ者の唇が、直ちに紫色になり、洪水による流木で焚き火をした人の顔や手足がたちまち亀裂した」などと書かれてあります。


嘘は嘘を呼び、当時でさえこんな嘘が広まっていたのには、驚きを禁じえません。現代人は正造が正義の人で、絶対に嘘つきではないと思っていますから、罪はさらに大きいといえます。


東海林は戦略的虚構だったといいますが、私は、正造が公害発生年についてまた別の嘘をついているのを見つけました。

彼は、野口春蔵宛の手紙に、「小山八郎の家の庭、下羽田の問屋の近辺、雲竜寺辺、下野田の石川輝吉の庭などが、明治14~15年頃、鉱毒で惨憺たる状態になっていた」と、絶対にあり得ないことを書いています(明治36年9月4日)。


つまり、正造は生来の嘘つきなのです。ですから彼の発言は信用してはいけないのです。それなのに東海林らは正造を絶対者に祭り上げ、その嘘を根拠にして足尾鉱毒事件を説明しているのです。