足尾鉱毒事件自由討論会 -4ページ目

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・27

正造の直訴は、確かに「世論の沸騰に点火」することには相当程度成功しました。
しかし、足尾銅山の公害とその防止対策の事実を押し隠し、政府や古河を悪者扱いにするきっかけをつくりました。


明治時代にあっては、公害の加害企業のオーナーである古河市兵衛は、その大規模公害防止工事を敢行したことが評価され、雑誌『太陽』の読者から「明治12傑」の一人に選ばれたのに、田中正造が公害反対運動の英雄に祭り上げられた100年後には、反対に悪魔のような存在にされてしまいました。
この本も、こうした嘘の情報を流して意図的に歴史を捻じ曲げる役割を果たしています。


著者が、正造の行動を正当化する意見だけ、直訴後の世間の反応として取り上げているからです。


「立憲政体の行わるる今日、直訴にまで及ばねばならぬという事それ自体が、実に実に明治政府の醜態を如実に暴露した」(反対運動幹部の永島與八著『真相』)


「余は先夜横浜に鉱毒地救済演説会を傍聴せり。各弁士の熱誠なる論証により、いかに鉱毒の激甚なるかを知ると同時に、また田中翁の直訴に及べる所以の真相をも知り得たり」(『毎日新聞』明治34年12月19日、読者の投稿?)


「正造は、渡良瀬川沿岸の人民に代わりて足尾鉱毒の被害を訴える者なり。議会聞かず、政府顧みず、社会助けず、正造終にこれに及べり」(『万朝報』明治35年1月1日、同紙記者の社会主義者堺利彦)


直訴は、「退潮過程をたどる鉱毒反対闘争の活性化を図る」目的で行われたと結論づけながら、著者は、「鉱毒の激甚なる被害を訴えた」と受け取る人たちの声だけをとりあげています。
「明治政府の醜態」とはいったい何なのでしょう。政府は公害防止対策を古河に命令し、それが成功して田畑が元に戻っているのです。


「議会聞かず、政府顧みず、社会助けず」は全部事実と反対で、それは著者たちも充分承知しているはずなのに、嘘の意見をピックアップしているわけです。
堺利彦は、直訴状を書いた幸徳秋水とともに「平民社」を設立し、「日本社会党」の結成に参加。第1次の共産党を作ってその委員長になった人ですから、バリバリの社会主義者です。


著者は、日本政府に反対する最左翼の人物の意見を「世間の反応」にして、平然といるわけです。明らかに左翼的偏向ということができます。


東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・26

農学博士・横井時敬の鑑定書によれば、鑑定した20数個の田んぼのうち、5つは標準作の2石以上の収穫があって、鉱毒被害なるものは、このときかなり元の農地に回復していたことが分かります。


ところが、それなのにこの年の12月には、正造は、公害の被害を受けて悲惨な状態にある農民を救ってくださいと、明治天皇に直訴したというのです。
なぜなのでしょう。


この本の著者である東海林吉郎は、この直訴が、社会主義者の幸徳秋水と新聞記者の石川半山と正造の謀議によって計画され、3人が協力して実施したこと、直訴状も幸徳秋水がかなり前に代筆したことなどの新説を発表した人です。
ですから、直訴のことは詳しく解説しています。本文を引用しましょう。


「(直訴直後)幸徳は、自分が執筆した直訴状の写しを、通信社を通じて各新聞社に流した後、素知らぬ顔で(毎日新聞主筆の)石川と木下尚江のいる部屋を訪ねた。そして、<実は君たちに謝りに来た。田中正造が昨夜遅く直訴状の執筆の依頼にきた。僕だって直訴なんか嫌いだが、仕方なく書いてやった>と芝居を演じた」


「こうして、幸徳の芝居を真実と信じた木下は、そのことを著書に書くなどして、直訴における田中・石川・幸徳の謀議の存在とその真相を覆い隠す贋の証言者の役割を、1970年代まで演じつづけるのである」


「取調べに際し、田中はひたすら天皇にすがったものとする建て前を貫き、謀議を秘匿したので、不敬罪の成立する余地もなかった。こうして田中は、直訴の当日に釈放された」


この解説から、田中正造は、純粋に「悲惨な状態にある農民を救ってください」と明治天皇に直訴したわけではないのだということが分かります。
研究者がそういっているのです。つまり、公害による被害農地はかなり回復していて、農民も満足し始めていたので、彼らは直訴など望んでいなかったのです。


ですから、社会主義者との謀議で計画された田中正造の直訴は、実は全く別の目的で実施されたわけです。
著者の東海林吉郎は、直訴の本当の目的を、次のように書いています。


「天皇の慈悲にすがるのではなく、直訴という社会的な衝撃を狙い、それによって報道機関を動員し、世論の沸騰に点火し、退潮過程をたどる鉱毒反対闘争の活性化を図るとともに、政府の譲歩、転換を引き出そうとするものであった」


つまりは、正造の直訴は、被害農民を救うためではなく、社会主義者を弾圧する政府への抵抗運動を活性化する目的で行われたのです。
だからこそ、直訴状は、その後大逆事件で死刑になる社会主義者の幸徳秋水に書かせたのでしょう。
そうでなければ、死を覚悟したはずの直訴の文章を、鉱毒被害の実態を知るはずがない他人に書かせるわけがないではありませんか。


田中正造という男は、明治天皇までだましたわけです。


東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・25

川俣事件の裁判は、事件の翌年の明治34年10月には、舞台が東京控訴院に移されました。そのため、東京の新聞が直接取材することになり、足尾鉱毒事件は一躍全国的な注目を浴びました。
このことについて、この本は、概略次のように書いています。


「10月6日から12日まで、被害の状態・程度の鑑定が、被害農民に理解のある農科大学(東京大学農学部の前身)の教授横井時敬と農学士長岡宗好、同豊永真理を鑑定人とし、判事、検事、弁護士たちが同行して行われ、被告人と有志総代の案内により新聞8社の記者がこれを取材した。・・・そして、そのいたるところで、この世の地獄とも言うべき、被害地の惨状を目にしたのである」


さらにこの本は、10月9日に『報知新聞』の矢野政二記者が書いた現地のありさまを引用して、被害地の惨状を強調しています。


「全くおどろいた。・・・その被害が栃木・群馬両県のわたり、まるでこの世の地獄の体だ。人民の騒ぐのも無理はない。しかして政府が10年もこれを捨てておいたのは全くおどろいた」


しかしまた著者は、興味深いことに、新聞が農民側の主張に疑問を持った事実も、次のように報告しています。


「だが、新聞は必ずしも、被害農民の側に立ったわけではない。とくに、明治30年5月の工事以降も、銅山が鉱毒を排出しているという農民の主張には、ほとんどの新聞が疑問視し、あるいは否定的であった」


これを読むと、新聞社は裁判所によるこの「被害地臨検」から、鉱毒被害に同情したり疑問を持ったりしており、被害の程度については、判断は一様でなかったことが分かります。


「政府が10年もこれを捨てておいた」と書いている『報知新聞』の矢野政二記者は、明らかに事件に全く無知だったことが分かります。ですから「まるでこの世の地獄の体だ」も、信用できません。
しかも、著者は被害農民の言うことを「ほとんどの新聞が疑問視し、あるいは否定的であった」というのです。
著者はいったいどちらが真実だというのでしょう。さっぱりわけが分かりません。


このとき、新聞は、被害農地が「かなりな作柄」(『万朝報』10月12日)とか「激甚被害地以外は極めて豊作」(『朝日新聞』10月6日)などと書いていますし、この裁判の鑑定人、農学博士・横井時敬は、群馬県の多々良村の原武八の水田は1反歩当り3石余も収穫した(標準作で2石)、とまで報告しているのです(『足尾銅山鉱毒被害地臨検分析鑑定書』)。被害農民が嘘をついていることは、明白だったわけです。


この本の著者たちは都合の悪いデータは隠しているのです。ですから、書いている内容も矛盾してしまうのです。

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・24

明治33年2月、有名な「川俣事件」が起こります。
被害民の一部が東京の政府に集団請願すべく大デモ行進を決行したのですが、川俣という所で警察側に阻止されて大勢の運動員が検挙された事件です。


この事件について、この本は、『下野新聞』の記事を次のように引用しています。


「実にその光景酸鼻に耐えざるものありき、警察権力なるもの、かくの如き点まで及ぼし得べきものなるか」(明治33年2月14日)


そして、デモ隊の数は、被害農民側によると、「1万2000人と号し」と下野新聞の記事(2月16日)を挙げているのですが、著者はまた、次のようにも書くのです。


「警察側は2500名とし、各新聞はこの警察発表をそのまま用いている。永島与八は3000余人、石井清蔵は3500余人とし、正確な数字は不明である」


実は、永島も石井も、被害民側にいた活動家ですから、事実に近い数字は2,500から3500人ということができます。
ですから、下野新聞の「1万2000人」は、デモ隊の幹部で逮捕された永島の「3000余人」とはかけ離れすぎており、信用できるはずがありません。


にもかかわらず、この新聞から、「実にその光景酸鼻に耐えざるものありき」との感情的な記事を平然と引用しているのですから、いかにいいかげんかということがわかります。


こんなことで、客観性が保たれるのでしょうか。保たれるはずはありません。ですから、この本は主観的で偏向しており、客観的な歴史を解説しているとはいえないのです。


東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・23

被害農民の救済策として、明治政府は、被害の重さに応じて税金(地租)を免除すること(免租処分)を実施しています。


その内容は、免訴の期間を15年間(特等)、10年間(1等)、8年間(2等)、6年間(3等)、4年間(4等)、2年間(5等)の6段階にわけ、土地にかける税金(今なら不動産税)を免除したもので、明治31年5月から施行しました。
この免租処分に関しても、この本の著者は次のような不平不満を述べています。


「こうして実施された免租処分は、真に被害農民の救済と自主に資するものではなかった」


「だが、それだけではない。被害農民が、地租の納付によって得ていた公民権と選挙権を喪失させたばかりでなく、地租などに依拠していた地方自治体の財源の減少あるいは枯渇をもたらしたのである」


「それは、救済のごとく装われた行政措置(免税処分)による人権の剥奪であり、地方財政の逼迫による町村自治の破壊と圧殺を伴うものであった」


「当時、選挙権は25歳以上の男子で、衆議院議員(国税15円以上)、県会議員・郡会議員(3円以上)、市町村会議員などの選挙にかかわる公民権は、国税を2円以上納めた者に限られていた。これが、免租処分によって選挙権・公民権の喪失となったのである」


いったいこの人たちは、どこまで欲が深いのでしょう。
そもそも政府に免租処分を求めたのは、被害民側です。


全集別巻の年表には、「明治31年2月群馬・栃木・茨城・埼玉4県68町村長および被害民総代、<鉱毒被害地特別免租処分請願書>を関係大臣に提出」と記してあります。
当然、被害民側は「選挙権・公民権の喪失」を承知で請願したはずです。


「町村自治の破壊」とありますが、当時は県知事も国家公務員で、中央政府の任命でしたから、町村自治など存在しませんでした。地方財政が逼迫したら政府と交渉すればいいわけです。


それに、被害農民の一人で、東京の「鉱毒停止請願事務所」に詰めていた室田忠七の行動に関して、この本は次のように書いてあるではありませんか。


「明治30年10月以降、室田は、帰郷して被害町村の免租請願の組織化に力を注ぎ、・・・さらに免租処分が決定して後は、被害調査中の納税延期請願、免租処分延期請願などの現地の運動の組織化と指導にあたった」


被害当事者中の指導的立場にある者が、積極的に免租を求めつづけていたのです。
何で第3者の著者たちが、不満を言う必要があるのでしょう。


東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・22

公害予防工事にかかった費用についても、著者たちはとんでもないケチをつけています。


古河側の資料によれば、直接工事費は104万円(今のお金に換算して104億円)でした。これが唯一の数字といえます。他の計算例がないからです。
ところが、著者は次のように書くのです。


「ところで、この工事費は、総計104万円といわれる。だが、この金額に疑問がないわけではない。田中正造は、経理上支払ったように操作すればそうなるのであり、80万円でも20万円でもできたかも知れないといっている(全集第8巻27ページ)」


「古河は、足尾の各家々から男子一人ずつ手弁当で動員しており、無報酬の町民の帳簿上の処理にも疑問は残るのである」


ここで著者たちは、田中正造の発言を根拠に難癖をつけていますが、正造は「80万円でも20万円でも」といっているから、というのです。しかし、正造のこの言葉からは、彼が口からでまかせの、何の根拠もない嘘を言っていることが、むしろはっきりと分かります。80万円と20万円ではあまりにもかけ離れていますから、めちゃくちゃな嘘だと分かります。


にもかかわらず、正造の言葉を信用し、これを根拠に104万円は事実ではないと解釈する著者には、本当にあきれるばかりです。
「古河が手弁当で住民を動員した」も、話としてはむしろ反対で、「住民を動員した」のでなく、事実は「住民が志願した」はずです。


「もし期限内に竣工できなければ閉山になる」というのですから、足尾銅山で飯を食っている住民たちは「手弁当で」工事を手伝おうとするに違いないのです。
古河の作成した前記の資料を引用してみましょう。


「この大工事を起こすために第一に必要なのは人夫で、それを総計すれば58万3589人に達した。火急の際にこの多数の労働者を集めるのはすこぶる困難だった。ほとんど全国から拉致せざるを得ず、関東・東北から九州に至るまで百方奔走を尽くしてややその必要人員を募集できたのである」


「にもかかわらず、なお大いにその不足を感じたので、坑夫まで工事に狩り出した。しかし、坑内で労働する彼らは日射に耐えられず病人が続出して、その困難もまた言語に尽くせぬものがあった。そこで足尾、日光、今市などの地方諸氏が大いに同情して、それぞれ義援団体を組織し多数の人夫を卒えて当所の事業を援助したのである」


したがって、「無報酬の町民」の分は計算していないわけですから、実際の費用は、帳簿上の104万円よりも多かったはずです。「疑問は残る」どころか、事実は著者の推測とはおそらく反対だったのです。

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・21

この本は、鉱毒予防工事の問題点をさらに次のように指摘します。


「また、沈澱池も決して満足すべきものではなく、大隈重信も指摘するように、生石灰による中和を怠ったばかりではない。冬期になると氷結し、鉱毒水はそのまま渡良瀬川に注いだ。栃木県議会がこの問題に関して建議した(明治30年12月28日)のは、よくよくのことといえるであろう」


これだけを読めばもっともらしく思うことでしょう。だから情報というのは怖いのです。
この見解に対して真っ向から反論した資料があります。それは前述した明治31年4月に古河が発表した『足尾銅山予防工事一班』ですが、それには反対派の言い分に対して、次のように説明して、誤解をしないでほしいと訴えています。


事実を客観的に知るには、双方の見解を並べてみることが必要です。大隈重信のような政治家ではなく、当事者である古河の技術者の説明は次のとおりです。どちらが事実に近いかは、皆さん自身が自分で考えて判断してください。


「世間往々に沈澱池の効用について疑いを抱く者がある。それは、寒冷の候には池水が氷結してその作用が働かなくなるというのであるが、実際の事情をよく知らないための誤解である。沈澱池も濾過池もそれぞれ交替池が作ってあるので、一つが働いている間は他方は休止している。そして、休止中の池が時に氷結することがあっても、沈澱・濾過作用を起こしている方の池は、決して氷結しないのである」


「足尾の山中の寒気は、誰でもよく知っているように、未だ流動水を氷結させるほど厳しくはない。抗水は普通水に比べて温度が高く、本山沈澱池のごときは常に脱硫塔の熱湯を注入しているし、池の中に注入するわけなので、波が立って停滞するわけがないのである」

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・20

当時は脱硫の技術はなく、効果がないのは当たり前なのに、この本の著者は次のように古河や政府を責めるのです。


「事実、古河側が危惧したように、その効果は薄く、脱硫塔においてはまったく機能せず、煙害はさらに激化した」


「製錬所上流の松木村は、明治34年1月、<煙害救助請願書>を政府に提出することになるが解決されず、同年暮れに廃村・絶滅する。一方、古河側は予防工事後、その脱硫塔は世界稀有の装置として喧伝するのである」


「煙害が激化した」のは事実です。しかし、戸数40の松木村は、明治34年10月、古河から全部で4万円(今なら4億円ほど)の示談金を受け取る交渉が成立して立ち退いています。ですから「解決されず」は嘘です。


著者は、その事実は全く隠して「廃村・絶滅」と書き、古河だけが悪いとの印象を読者に植え付けているわけです。


その上、「脱硫塔が世界稀有の装置として喧伝した」とまで付け加えていますが、それは本当なのでしょうか。


工事の翌年の明治31年4月に古河が発表した『足尾銅山予防工事一班』には、次のように書かれています。
「脱硫塔はわが足尾銅山において世界で始めて、最も壮大なものを装置したといっても過言ではない。欧米諸国の鉱山には、稀には設けてあるとはいえ、当所のものと同様に語るべきものはなく、破天荒であり、且つその設計および成績について説明できる例はない。したがって、世間の学者、専門家たちは、当所の成績の報告を待ってようやく、その実際上の結果を知ることが出来るわけである」


まだその技術がなく、政府が抱えている専門家も設計することが出来ない装置を、世界で始めてつくったのですから、自慢したくなるのは当然です。


彼らの調査によれば、この装置の平均的な脱硫率は42%だったということです。


しかし、結果としては煙害がひどくなって、古河は松木の村民と立ち退き交渉をせざるを得なくなり、前記のような立退き料を支払って難題を解決したわけです。
そんな実態になってもなお、「世界稀有の装置として喧伝する」馬鹿がどこにいるでしょう。そんなことはしていないはずです。


さらに付け加えれば、日本で始めてのこの公害防止対策は成功して、煙害ではなく汚染水害による渡良瀬川の大規模農業被害の方は、見事に解決しています。だからこそ、反対運動は鎮まったわけです。その証拠はたくさんあります。


にもかかわらず、この本の著者は、この事実は隠し、被害の防止が技術的に不可能で、しかも数の上では問題なく少ない40戸の松木村の煙害だけを取り上げて、古河を批判しているのです。何とも卑怯ではありませんか。

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・19

この本は、政府によるあまりにも厳しい公害防止工事のことを、全く反対に解釈して、読者を嘘とごまかしで騙しています。
本文を引用しましょう。


「この命令書の欺瞞と空洞性は、工事完成後に責任者(命令を出した東京鉱山監督署長)が、足尾銅山の所長に就任した事実に象徴されるばかりではない」


「この工事が果たして実効があるものか、古河側すら危ぶんだのである。特に脱硫塔はどんな装置にすべきか成案を欠き、確信のもてない古河側の設計を、そのまま施工させるという馴れ合い工事であった」


事実を客観的に把握するには、双方の資料を並べてみることが望ましいと思いますので、古河鉱業の社史を引用します。


「専門家の中には、政府の命令とはいえ、不可能な事を強制することに対しては、断然これを拒むべきだと市兵衛に進言する者もいた。工事期間の延長を請願すべきだと説く者も現われた。しかし、市兵衛はこれを斥け、命令を足尾に伝え、工事の完遂を期したのである」


「沈澱池および濾過池は、狭隘の場所に大貯水池を設置する必要上、土地の選択が容易でなかった。ことに、通洞の沈澱池は再三設計変更しなければならなかった。加えてこれらの工事の期限は最も短急であった。にもかかわらず、期限内に完工できた(一番早い着工は5月29日、遅い竣工は7月24日)」


「脱硫等については、政府は具体的設計を明示しなかったから、きわめて苦慮した。すなわち、命令は、熔鉱炉など十数基の煙突から出る硫煙を一煙道に集め、亜硫酸ガスその他を除却すべしというもので、いかなる装置によるかについては何一つ示されていなかった。そのため、市兵衛は予防工事部に研究させて、硫酸製造のゲールサック塔をモデルに、塔の中に石灰乳を雨下し、これに硫煙を導いて亜硫酸ガスを石灰乳に吸収させる装置を設計させた。これが後に脱硫塔といわれることになる装置である」


二つの資料を並べてみると、客観的な事実が浮かび上がってくると思います。
政府の命令は工事期限を厳しく設定しており、それは常識的には不可能な期限だったこと、したがって、政府と古河の間に「馴れ合い」などなかったことがわかるはずです。


明治30年当時、公害防止のための脱硫の方法などあり得ません。技術レベルが今日とは全く違ったからです。にもかかわらず、この本はあたかも脱硫装置についても政府と古河の間に「馴れ合い」があったかのごとく嘘の記述をしています。


政府も技術がないから設計できず、古河もやむなく適当に設計して済ましました。その結果は当然効果など全くない脱硫塔が造られたわけです。これは馴れ合いではなく、試行錯誤をするしか方法がないわけなので、両方とも真剣に公害対策に対処していた証拠だともいえます。 


東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・18

第3回の大規模な鉱毒予防工事命令のことを、この本はおよそ次のように説明しています。


この命令書は、亜硫酸ガスなどを除去する脱硫塔、鉱毒物質を除去する濾過池、沈澱池、泥砂堆積所や大煙突の建設他、全部で37項から成り、最後に「この命令書の事項に違反するときは、直ちに鉱業を停止すべし」と、工事期限を義務づけていた。


しかしこの説明は、実は、政府命令の厳しさを意図的に隠蔽した、明らかなごまかしです。

実際の命令書を引用して、分かりやすく解説しましょう。


第32項は、例えば次のように、沢山の工事ごとに工期を決めています。


「前項の工事は、この命令書交付の日より起算し、左の期日内に竣工すべし」


「本山沈澱池および濾過池は50日以内」


「小滝沈澱池および濾過池は45日以内」「旧坑坑水の処理は90日」


「本山製錬所の煙道は100日、大煙突は150日」


「その他各所の工事は180日」


政府は、明らかにこんな短期間では無理と考えられる工事期間を押し付けた上で、

「違反すれば直ちに鉱業を停止する」という第37項を付け加えたのです。


なぜ政府は、土木工事の常識では絶対してはならない、安全性を無視した、非常識な工期を決めたのでしょう。


建設工事では、発注者側が全体の工期を決めることはあっても、細目の工期を決めることはないのです。

私は、このときの農商務大臣が、田中正造の属する政党の党首・大隈重信だったからだと考えます。


ともあれ、常識的には不可能といわれたこの工事を、しかし、古河市兵衛は命令書の期日を守って竣工させたのです。

この本からは、古河側のそのような苦闘は何一つ伝わってきません。

鉱毒事件をまったく偏向した目で主観的に書いているからです。

でも、それでは歴史とはいえないのです。