足尾鉱毒事件自由討論会 -7ページ目

岩波新書の『田中正造』・10

田中正造を賛美するために書かれたこの本は、正造の発言の明らかな嘘まで、読者に本当だと思わせる書き方をしています。次の引用文がそれです。


「沈澱池もまた十分に機能せず、鉱毒はいぜんたれ流しの状態がつづいたのである。のちに第15議会で正造が指摘した<予防命令なるものは一つも事実に行われ居るものなし。ただ足尾銅山の工事は人目を幻惑し、今より後、あらわに鉱毒の害及ぼさしめずと声言保証して、一方に人民請願の口術を塞ぎ、加害者の悪事を増大ならしめたるのみ>という言葉に誇張はなかった」


由井が引用した第15議会でのこの発言は、明治34年3月23日の質問書にあるものです。しかし、由井同様に正造を尊敬して彼の伝記を書いたイギリス人のケネス・ストロングは、『田中正造伝-嵐に立ち向かう雄牛』で、これに関して由井とは全く正反対の見解を次のように述べています。


「ここの所で正造が政府と古河に対して公正を欠いているのは、ほぼ確実である。工事後5年間は改善されたきざしはほとんど見られなかったが、明治35年には鉱毒は急速に減少し始めたのであり、その原因の少なくとも一端は、明治30年の予防命令だったことは間違いないからである」


『東京朝日新聞』の明治34年10月6日、『万朝報』の同年10月12日の記事、同年10月の、川俣事件の2審に提出された『足尾銅山鉱毒被害地臨検分析鑑定書』などを根拠に、私はこれまで、明治34年の秋には農地がかなり回復していた、と書いてきました。


しかし、最近、予防工事の効果を示した記録がもう一つあるのに、気づきました。
『風俗画報』の234号(明治34年7月)は、足尾銅山を特集した臨時増刊号ですが、ここには、次のように足尾の町の公害状況が記録されていたのです。


「明治21年の<日本鉱業会誌・第38号>には、帝大助教授の的場中が、<足尾の町の谷間には白色の煙霧が充満し、目に触れるものは皆赤黒い塵埃を帯び、谷底を流れる汚水は、鉱石の粉末と丹ばん液で、坑内にもこの液体が流れている。屋根の亜鉛鉄板も坑内の線路もいずれ腐食するに違いない>と報告していた。しかし、記者が実際に見た所では、今は硫酸の臭いも塵埃も汚水も一つも見当たらない。すなわち、予防工事によってこれらが蕩尽したことがわかる」


岩波新書の『田中正造』・9

著者由井は、鉱毒予防工事についてさらに次のように書きます。


「しかし、この工事がいかに監督官庁とのなれあいのもとに行われたかは、工事完了ののち間もなく鉱山監督署長の南挺三(発令名義人)が、古河鉱業の足尾銅山所長に就任したことからも知られる」


由井は「なれあい」と書いていますが、政府が決めた「竣工期限内に竣工しなければ直ちに鉱業を停止すべし」という命令は、明らかに古河をつぶそうと図った措置です。政府と古河に「なれあい」などあるはずがありません。


南挺三がその後古河鉱鉱業に就職したことが、「なれあい」の証拠になるはずもありません。単なる邪推でしかないからです。
自分のお金で自分の会社の施設をつくるのに、手抜き工事をする馬鹿はありません。
もし工事の欠陥によって事故が起これば、会社自体が莫大な損失をこうむるのです。どうして「なれあい」的な工事などするでしょう。


由井は、次にこう続けます。


「のちに明らかになるように、脱硫塔はまったく機能せず、煙害はさらに激しくなり、製錬所上流の松木村は明治34年暮には廃村に追い込まれている」



古河鉱業の社史の『創業100年史』は、次のように記述しています。


「脱硫塔のついては、政府は設計を明らかにしなかったので、その建設はきわめて苦慮した。・・・いかなる装置によるかについて、何の成案も示されていなかった。このため、市兵衛は塔中に石灰乳を雨下し、これに硫煙を導いて亜硫酸ガスを石灰乳に吸収させる装置を設計した」


当時まだ脱硫の技術はなかったので、命令する側も何の指示も与えられなかったのです。
そこで、古河側はやむなく適当に設計したわけです。


実際、煙害は防げなかったので、古河鉱業は松木村民と示談交渉し、全40戸に4万円(今なら4億円)を支払って立退いてもらいました(明治34年10月)。これが事実です。「廃村に追い込まれている」と書く由井の嘘はこれでよくお分かりと思います。


この説明には、由井がいかに平気で読者をだましているかが、はっきり示されています。
当時の技術レベルでは脱硫は不可能なので、この装置は本来機能するはずがないからです。

岩波新書の『田中正造』・8

明治29年の3回にわたる大洪水は、かなり多くの被害民を、古河に対する鉱業停止要求運動に駆り立てました。
明治30年3月3日、被害民200人が大挙上京して請願行動を展開します。


その後のことを新書の著者由井正臣は、明治政府の松方正義内閣が3月24日に「鉱毒調査委員会」を設置し、29日に外務大臣の大隈重信が、榎本武揚の辞任後に農商務大臣を兼任したこと、そして、上記の委員会の諮問にもとづいて、農商務省が5月27日に古河鉱業に「鉱毒予防命令」を発したことを説明しています。


そして次のように書きます。


「命令書は37項目にわたり、坑内排水の沈澱池、からみ、捨石、泥砂などの堆積所の整備、脱硫塔、煙道および大煙突の建設などを義務付け、それを各工事によって30日から120日の間に完成するよう命じていた。古河は命令どおりこの工事を完成させ、鉱業の一時停止をまぬがれた」


由井は、ここで非常に大切なことを省いています。
なぜ「各工事によって30日から120日の間に完成するよう命じていた」のかを、説明していないのです。


命令書の第32項は「前掲の工事は、この命令書交付の日より起算し、左の期日内に竣工すべし」となっていて、「本山沈澱池および濾過池は50日以内」などと、工事ごとに竣工期間がこまかく示してあるのですが、第37項は「この命令書の事項に違反する時は、直ちに鉱業を停止すべし」となっているのです。


つまり、本来工事の工程は、工事をする当事者が実情に即して、安全性や工事の質を考慮しながら合理的に計画すべき性質のものであるべきなのに、この場合は、発注者である農商務大臣が、足尾銅山の「鉱業を停止する」目的で、竣工不可能な工事期間を勝手に決めたというわけなのです。


そうでなければ、欠陥工事を必ず招来するはずの超短期の工事期間を、このように指定するわけがないではありませんか。


外相と兼任することになった農商務相の大隈重信は、田中正造の所属する進歩党の党首だったので、正造の希望を入れて足尾銅山の操業を停止しようとしたわけです。


常識的にはこの工期では無理だったので、みんなは諦めようとしたのですが、古河市兵衛は絶対やり抜くといって、結局期限内に竣工させたのですが、元技術官僚だった工事責任者の近藤陸三郎は、市兵衛を説き伏せて、2箇所の製錬所に施すべき脱硫塔・煙道の工事を、当局と交渉して1箇所に変更してもらっています。絶対無理と判断したからでしょう。


由井は、政府と古河が癒着していたと読者に思わせるため、政府が古河をつぶそうとして発令したこの命令の内容をあいまいにしたのです。     


岩波新書の『田中正造』・7

著者の由井正臣は、本当は隠しておくべきことを、ついうっかりして次のように書いています。


「(明治29年)9月15日、鹿児島県人伊藤章一の名で<足尾銅山鉱業停止請願(草案)>と題された1枚の印刷物が、被害地の人びとに送られたが、実は正造の起草である。この印刷物はその後被害民の意識と行動に大きな影響を与えることになる」


いったい栃木県で起こった公害についての請願書に、なんで被害当事者とは全く関係ない鹿児島県人の名義を使う必要があるのでしょう。


実は、全く意味のないこのような行動に、絶えず嘘をついていた正造の、正造らしさが明確に現れています。

嘘をつく必要がない時にも、嘘をつけば逆に不利な時にも、彼は平気で嘘をついています。

たぶん病的な虚言症だったからでしょう。


由井はこのことを大して気にしていないようですが、正造が嘘つきだと言う明確な事実を示しているのですから、無視できない重要事です。

正造の発言が嘘かもしれないわけですから、その発言をそのまま引用するのは危険のはずです。

にもかかわらず、由井は全面的に正造を信頼してその発言を受け入れているのです。何と浅薄なことでしょう。


ともあれ、由井がいかにお粗末な間違いを犯しているかを、これからまた実証していきます。

岩波新書の『田中正造』・6

著者の由井は、永久示談のその後をさらに次のように書きます。


「正造の警告にもかかわらず、永久示談の動きは安蘇郡町村にも拡がった。29年7月には、安蘇郡の植野、界(さかい)、犬伏の3か町村代表は、横尾輝吉を訪ねて仲裁を依頼し、9月10日には現地で会合をもって調査を再開しようとしていた。その矢先に、この年2度目の大洪水が起きたのである」


果たしてこの説明が正しいかどうかを、横尾輝吉本人の回想記で確かめてみましょう。
『足尾銅山鉱毒事件仲裁意見書』(明治29年12月)は、次のようになっています。


「明治29年6月30日の期日が来て、各町村の総代から<紛鉱採集器は役に立たないから、また仲裁を頼む>との要望があったので、旧仲裁委員に協力を頼み、古河市兵衛氏にもその旨伝えたところ、<また示談したいので仲裁を頼む、という返事があった。そこで、8月10日から、安蘇郡植野村の法雲院で、被害地の総代諸氏と相談を始める手筈をとった」


「ところが、8月7日から大洪水が来て、交通途絶で流会になり、9月にもまた大洪水があって、その下旬には<村人が鉱業停止の請願にぞくぞく賛同し始めたので、仲裁のことは取り消したい>と、安蘇郡犬伏町の総代らが言ってきた」


「10月初旬に宇都宮の旭日館で仲裁委員会を開いたところ、被害民総代たちは明治26年7月から29年6月までの損害金として、安蘇郡植野村は10万831円余、同郡界村は10万8172円余、同郡筑波村他5か村が13万301円余を要求してきた」


「10月中旬、仲裁委員が上京して古河市兵衛氏にこの金額を告げたところ、<前の示談金額に比べて非常に高額だし、永久示談地との関係からもにわかに決められないので、少し考えさせてくれ>と言われた」


「11月初旬には、植野・界・久野3村の総代がやって来て、<村民の意見は、明治26年7月以降の示談金ももらうが、鉱業停止の請願もさせてもらうので承知してほしい>と念を押して帰った」


横尾は、この手記の最後の方で次のように書いています。


「足尾銅山に対して公平なる議論を為せば、世人の多くは古河に買収され腐敗したなどと言いふらし、また、鉱業停止の請願を唱えればあたかも正義家のごとくに思うは、はなはだしき過ちにはあらずや」     


岩波新書の『田中正造』・5

著者の由井は、次に「永久示談」のことを持ち出して、古河側に非があったように主張しています。


彼は、紛鉱採集器がほとんど役に立たないことが分かったので、「古河は示談契約期間のきれる前に、被害民と永久示談を結んで沈黙させようとしたのである」と書き、その最初の実例を、以下のように説明しています。


「永久示談契約は、明治28年3月16日、下都賀郡、足利郡の被害町村で結ばれた。その関係人員、示談金額とも第1回の示談契約を下回った。安蘇郡にもその動きがはじまっていた」 


「在京の正造はこの情報をいち早くとらえ、永久示談がいかに<非理・不利・不得策>のものであるかを説き、それが郡長や県会議員らによって強圧的手段によっておしすすめられていることの不法性をするどく指摘した」


由井は、田中正造の判断が正しいと断定し、それで事実を解釈しようとしています。しかし、この解釈は本当に事実に基づいているでしょうか。


明治28年3月16日の、つまり由井が例に挙げた永久示談契約について、横尾輝吉は、「被害人民と銅山主と熟談の上契約が為されたその内容は、以下のごとくだった」と前述の「意見書」に発表しています。


「1.金2000円也。古河市兵衛殿。下都賀郡部屋村外4か村被害地主総代・小倉嘉十郎外28名。明治25年8月23日付けご契約の次第もあるが、今般協議の上、更に頭書の金額貴殿より領収つかまつり候事確実なり。したがって、どんな事故が生じても損害賠償その他苦情がましいことは一切申し出ません。25年8月23日付の契約は本日をもって無効になります」


そして横尾輝吉は、「このような例があって、下都賀郡の被害者は全部永久示談になった」と説明し、「永久示談金の総額は3万4119円3銭で、契約人員総数は5127人だったが、参考までに述べれば、初回の示談金と人員は、7万6602円96銭と8414人である」と、詳しいデータをあげています。


このことから、永久示談金というのは「上乗せのお金」だったことと、永久示談契約は希望者との間だけに結ばれていたことがわかります。


被害を受けた当事者が相手と協議して(示談によって)契約したことに、事情もよくわからず、第3者に過ぎない正造や由井が、なんで文句をつけるのでしょう。永久示談契約をしなかった人は、正造の言う「強圧的」な押し付けに勝ったことになりますが、どうしてそれが可能になったのでしょう。由井はその理由を何も説明していません。つまり、嘘を言っているのです。  

     


岩波新書の『田中正造』・4

次に由井は、示談契約の内容について、前の説明とは違うことを以下のように書きます。


明治29年6月30日までは、公害防止設備の粉鉱採集器の試験期間とするので、「契約人民は何等の苦情を唱うるを得ざるは勿論、その他行政及び司法の処分を乞うがごとき事は一切為さざるべし」、とするものであった。


「示談契約の本質は、足尾銅山の利益擁護を基本とし、被害者の権利意識を眠りこませるものであった」


県知事が示した先の示談内容と違って、「明治29年6月30日までは」という条件がついていることが、お分かりと思います。


ここで由井の書いていることは、果たして本当でしょうか。


実際の示談契約書は、次のとおりです。


第1条 古河市兵衛は、粉鉱の流出を防ぐために明治26年6月30日を期し、精巧な紛鉱採集器(公害防止設備)を足尾銅山の工場に設置する。 

第2条 古河市兵衛は、徳義上示談金として、左のごとく支出する(内容省略)。

第3条 明治29年6月30日までは、紛鉱採集器の試験中のため、契約民は苦情を唱えたり、行政・司法の処分を乞うなどしてはいけない。

第4条 明治29年6月30日以降、紛鉱採集器がその効を奏したときは、この契約は解除される。

第5条 紛鉱採集器が万一効力がないときには、なお将来について臨機の協議を行い、別段の約定をする。 


つまり、「お互いに話し合いで約束しましょう」というのが示談ですから、第3条の「契約民は苦情を唱えたり、行政・司法の処分を乞うなどしてはいけない」、と約束することは当然のことです。


裁判などによる解決は不可能だから、県会議員の仲裁の下で示談交渉がなされたのです。

したがって、「仲裁委員会による示談は、県-郡-町村という完全な行政ルートをつうじて強圧的に、そして異常な速さですすめられていった」という前回の由井の非難も、示談の性格が強圧的、一方的なものでない以上、全く的外れだということが出来ます。


その少し後、住友の別子銅山でも、藤田組の小坂銅山でも、久原房之助が経営していた日立銅山でも公害が発生し、被害民が糾弾しました。

しかし、どの加害企業もすぐには責任を認めず、金銭による補償は全くしませんでした。すぐに示談を提案した古河は、例外的に誠実だったのです。


「示談契約の本質は、被害者の権利意識を眠りこませるものであった」も、ですから全く事実関係に無知な、由井の勝手な観念にすぎません。反証もあります。


そもそも、鉱毒の被害者がすべて古河を敵視していると思い込むことには無理があります。足尾銅山の周辺の農民の多くは、銅山のお陰をこうむって生活していました。現実問題として銅山側に文句を言えない立場にあったのです。


示談が成立した後のことを、仲裁委員の一人で栃木県会議長や国会議員にもなった横尾輝吉は、「鉱毒事件仲裁の顛末」に、次のように書いています。


「この仲裁の結果は、両関係者ともに非常の満足を表わし、被害人民諸氏は各町村ごとに盛大なる慰労会を開き、遠くわれわれ仲裁委員を招待せり。各町村ともに美麗なる用紙に感謝状をしたため、各委員に贈られた」   

岩波新書の『田中正造』・3

著者由井正臣は、次に、加害者の古河市兵衛と被害農民とで交わされた示談契約について説明をします。
その部分を引用しましょう。


「明治24年12月、栃木県知事は示談契約に関する規約草案を沿岸各町村に示した」


「その内容は、被害地は、知事の紹介をもって、古河市兵衛に24年から26年まで3年間の被害にたいして、何ほどかの金額を<懇請>する。それについては、3年間に被害が増加してもいっさい苦情を申しでないとするものであった」


「この仲裁案が、政府あるいは古河側の意向をどの程度反映したものであるかは、あきらかではないが、相互にある程度了解があったことは推測できる」


由井正臣は、知事に対して不満を表明しています。しかし、加害者は誰かがまだ特定されていないこの時点で、加害者と被害者との間に示談の動きがあったことは、日本の公害事件では全く例がないことです。加害企業も行政側も、今の時代と比較すれば、とてつもない優等生ではありませんか。
誉められていいことなのに、いったいなぜ逆に非難するのでしょう。


そして、由井の言う知事の行動は、果たして本当なのでしょうか。


『栃木県の百年』(山川出版社)は、明治25年1月に古河の番頭の浅野幸兵衛が、群馬県新田郡長の高山幸雄に対し、洪水による田畑の損害には「銅山側に非があることを認め、粉鉱採集器による除外法を強調」したので、高山はその設置を条件に、「示談契約書を交わした」こと、さらに、栃木県に派遣された番頭の井上公二によって、同県でも「ただちに示談に入った町村があらわれた」、と説明しています。


由井は、次いで、翌明治25年2月に、栃木県会議員19名からなる仲裁委員会が組織され、彼らの仲介で示談交渉が始まったことを説明していますが、ということは、知事が、明治24年12月の段階で、「何ほどかの金額を<懇請>する」とか、「いっさい苦情を申しでない」という「規約草案を沿岸各町村に示した」ということは、きわめてあやしくなります。


地元の県会議員を差し置いて、沿岸各町村に知事が直接何かを指示するのは、普通考えられないからです。
『資料・足尾鉱毒事件』(亜紀書房)に、編者の内水護は、「明治24年12月の栃木県会で、被害地の損害を古河に賠償させてほしいとの意見が出された。そして、翌明治25年2月には、県会の決議にもとづいて仲裁委員会が組織され、示談の斡旋に乗り出した」、と解説しています。


さらに由井の説明が変なのは、示談契約の対象を、「24年から26年まで3年間の被害」としていることです。まだ発生していない25年と26年の被害を示談の対象にするはずはないからです。
したがって、「この仲裁案が、政府あるいは古河側と県知事の了解のもとにつくられた」というのも、由井による全く根拠がない「推測」だ、ということが推測できます。


読者にはまず歴史の事実を提供すべきであって、その前に著者の推測などを聞かせるのは失礼な話です。もし読者を本当に納得させたいなら、読者が自然に推測し、自然に納得するような事実を提供すればいいのです。


由井は上記の「推測」だけでは満足せずに、そのうえ次のように書くのです。


「仲裁委員会による示談は、県-郡-町村という完全な行政ルートをつうじて強圧的に、そして異常な速さですすめられていった


果たしてこれは事実でしょうか。検証してみましょう。



岩波新書の『田中正造』・2

この本の著者由井正臣は、田中正造による足尾鉱毒事件の国会質問に対する政府答弁に関し、次のような感想を述べています。


「この答弁がいかに欺瞞にみちたものであるかは、そのわずか1か月後に官報にのった<被害地調査報告書>の中で、古在由直・長岡宗好両助教授が、被害の主因が足尾銅山の鉱毒にあることを科学的分析にもとづいて詳細にあきらかにしているからである」


この文章をよく読んでみてください。正しい文章になっていないことにまず気づくと思います。


これでは主語と述語が繋がっていません。したがって、たとえば「・・・欺瞞にみちたものであるかは・・・・あきらかにしていることから明白である」、といったように直さなければ、意味が通じません。
岩波の編集部までこのミスに気づかないのは驚きですが、いったい、政府の答弁がなぜ「欺瞞にみちたもの」なのでしょう。


当時の農商務大臣である陸奥宗光は、「農科大学でも調査している。しかし、結論はまだ出ていない」と、明治24年12月25日に答弁しているのです。
そして、その農科大学(正式名称は帝国大学農科大学。東大農学部の前身)の古在由直・長岡宗好両助教授は、由井正臣がいう「1か月後」の明治25年2月に至ってから、「被害の主因が足尾銅山の鉱毒にある」、という結論を出したのです。


いったい大臣の答弁のどこが間違っているのでしょう。この著者には、時間の前後の区別がつかないのでしょうか。どの点が欺瞞に当るのでしょう。


誰が考えてもまともで正確な政府答弁を、「いかに欺瞞にみちたものであるか」と怒っているこの人は、「明治政府は悪」という観念に支配され、その悪感情を無関係の読者にぶつけているのです。


岩波新書の『田中正造』・1

田中正造のことを書いた本は相当数多く出ていますが、一番売れているのは由井正臣著『田中正造』(岩波新書)ではないでしょうか。


その影響力からいって無視できないので、読者をだましているこの本の問題箇所を、ページを追って点検していきます。


明治24(1891)年12月18日、帝国議会で足尾の鉱毒問題について田中正造が最初に質問書を提出し、農商務大臣がこれに答弁したことに関して、著者は、年末の官報に発表された答弁内容は以下のようなものだった、と書いています。


1.被害が足尾の鉱毒によるものとは断定できない。
2.原因については分析試験中だ。
3.粉鉱採集器を外国から買い、設置の準備をしている。


ずいぶん冷たい回答だったみたいに箇条書きしていますが、官報で確かめると、実際は概略次のようなものでした。


「今日までの調査では原因は確定していない」


「今年の2月以来、栃木県に3回、群馬県に2回技師を派遣・調査し原因を研究している。効果があると思われる除害方法はすでに両県に報告した。医科大学教授にも土壌分析をさせ、農科大学でも調査している。しかし、いずれも結論はまだ出ていない」


「1年前に本大臣は、鉱山局長、嘱託で且つ工科大学の教授、それと本省技術官に足尾銅山への出張を命じ、現地調査をさせた。その結果、銅山側は、予防対策としてドイツとアメリカから3種の粉鉱採集器を購入し、合計20台を新設して、鉱物の流出を防止する準備をしていることが分かった」


関心のある方にはすぐわかりますが、日本の公害の歴史において、国会で問題になる1年も前から原因調査を始めた例などありません。明治政府の対応は何とも立派で、賞賛に価するといってもいいと思います。


ところが、この本の著者は、なんと政府のこの答弁を非難しているのです。