足尾鉱毒事件自由討論会 -5ページ目

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・17

被害者側の立場からのみ見たこの「足尾鉱毒事件」は、また次のように書きます。


「足尾銅山鉱毒調査委員会の設置には、見落としてはならない側面があった。設置されたその日、内務省は被害県の知事に、大挙押し出しなど不穏の挙動に出ないことを説諭するよう通牒していた。つまり、調査会の設置は被害農民の運動の抑制をも狙いとしていたのである」


何と甘ったれた考えをするのでしょう。どんな歴史にも共通していますが、政府というものは大衆運動を絶えず抑圧しようとするものです。こんなことは当たり前のことではありませんか。
この本は、委員会の結論は、明治30年4月15日の時点で、次のようなものだったとしています。


1.足尾銅山付近の山谷に、速やかに砂防工事と植樹をする。
2.公害防止対策を検討する。政府がこれを実検して、費用を鉱業人に負担させるか、鉱業を停止させる。
3.渡良瀬川の鉱毒含有の土砂を、浚渫するか排除させる。


農商務省の坂野技師と東京大学の長岡助教授が、一時鉱業の全部もしくは一部の停止を命ずるべきだ、と主張したが、内務省の古市土木技監や鉱山学の渡辺渡前東大教授が反対して、このような結論に達したのだとのことです。
公害の加害企業に対して、このようにすばやく対処し、このように厳しく対応した実例はあったでしょうか。皆無のはずです。
責められることは、政府に何もないはずではありませんか。


この続きを引用しましょう。


「こうして、調査会は鉱毒予防命令の発動と、被害農地に対する地租免税からなる鉱毒事件処分を、政府の基本的要請に沿って打ち出すのである」
「一方、被害農民の直接行動などに対しては、弾圧政策で臨んでくるのである」
「明治30年5月27日、足尾銅山鉱毒予防工事命令が古河市兵衛に伝達された。その内容は、第1回(前年12月24日)、第2回(この年の5月12日)のそれとは比較にならない大規模なものであった」


著者たちが何気なく書いた上の記述から、私たちは重大な事実を知ることが出来ます。
委員会が設置される3ヶ月も前に、政府は第1回の予防命令を出していたことと、委員会が、第3回の本格的な命令の以前に、第2回の命令を発していたことです。


明治政府は、公害問題に対して、今の政府に比べて何と真面目に取り組んでいたのでしょう。改めて驚きます。
しかし、この本の著者たちには、農民を弾圧していたとしか見えないのです。これもまた驚きです。

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・16

前回に書いた明治30年2月26日の正造の質問演説は、この本によれば、「被害農民の積年のエネルギーをいっきょに爆発させたように」刺激し、3月2日には2,000余人が第1回の大挙東京押し出し(デモ行進)を決行するに至ります。


3月5日、そのうちの45人の代表と群馬県の委員11人は、農商務大臣に面会して鉱業停止を陳情・請願したとのことです。
そして、この本は次のように書いています。


「この大挙東京押し出しは、・・・広く世論に訴えることをめざした政治闘争であった。そして世論は、うねるように盛り上がった」


本当に盛り上がったのでしょうか。私に言わせれば、これは、正造や被害農民の立場から見た主観であって、客観的な歴史的事実とは言えません。なぜかといえば、当時この動きに批判的な勢力も存在したからです(後述)。
ともあれ、被害農民は一挙に過激化していきます。


3月18日、栃木・群馬・埼玉・茨城の4県連合の「鉱業停止請願事務所」が、東京の新橋の正造の定宿・信濃屋に設置され、その日、被害民は第2回目の大挙東京押し出しをする決議までしました。


明治政府も、この動きを真剣に受け止めて、3月23日には農商務大臣の榎本武揚が被害地を視察し、帰京したその日の夜、正造の所蔵する党の党首で外務大臣の大隈重信に、その結果を報告しました。


その時刻、3月23日の午後9時には、大挙東京押し出しのために被害農民3600人が現地に集合し、翌24日の午前2時には、内、2000名が先発隊として東京に向けて出発しています。


さらにこの日、正造が帝国議会に再質問書を提出すると同時に関連演説を行うと、政府は直ちに臨時閣議を開き、「足尾銅山鉱毒調査委員会」の設置を決め、即日委員を任命した、ということです。
翌3月24日の夜には、なんと被害農民6000人による後発隊が東京に向けて出発しました。


何ともあわただしい動きですが、この動向から判断すれば、公害事件に対して、被害民側も政府も、昭和30年代以降と比較して何と真剣に対処したのでしょう。私には驚きです。


ところが、著者にはそのようには見えてきません。ひたすら被害者側だけを見ているので、警察によるモ隊への規制を批判して、政府が公害反対運動を弾圧したという書き方をするのです。次のように。


「取り締まり当局は、これに対して厳重な警戒態勢をしいた。千住署は南足立郡淵江・六月・保木村間に警察官数十名を配置、浅草署は五十名の応援警官、下谷署も応援隊を出して水戸街道の金町から荒川筋に配置した・・・」


しかしこの本は、被害者側と田中正造を善とし、政府を悪と見て記述しているので、これは客観的な歴史とはいえません。主観的で偏向した記録にしかなっていません

政府が大衆運動を規制するのは当たり前のことで、どの国の歴史を見てもそうしています。
歴史とは、客観的な事実の記述でなければなりませんから、被害者の活動と同様にデモ隊への規制も冷静に記録する必要があります。

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・15

明治29年の7月から9月にかけての、異常気象による3回の大洪水は、渡良瀬川沿岸の農作物に大被害をもたらし、その原因がすべて足尾銅山からの廃棄物にあるかのごとき宣伝によって、古河鉱業は沈黙を余儀なくされました。


この本は、田中正造が、同郷の青山学院の学生である栗原彦三郎に頼んで、同学院院長の本多庸一の友人であるキリスト者の津田仙(農学者)に現地調査をしてもらい、キリスト教関係者にこの公害問題を知らせ、東京の人たちにも広くPRしたと説明しています。


明治30年の2月28日には、東京神田の青年会館で第1回の鉱毒問題演説会が開かれ、津田、正造、松村介石(キリスト者)、米人宣教師のガストルなどが演説して世論が盛り上がり、西南戦争で有名を馳せ、政治の世界にも影響力のある谷干城を運動の支援者に迎え入れることに成功した、とも書いてあります。
帝国議会での正造の活躍も再開されました。


明治30年2月26日、正造が質問演説で久しぶりに政府追及の火ぶたをきったのですが、著者の東海林は、ここで正造が最初に作った嘘、つまり、「明治13年には公害が発生し、渡良瀬川の魚は大量死して、その魚を売ったり食べたりしてはならないと警察が言った」という話を、その次の段階の嘘、つまり、「栃木県知事の藤川為親が布達した」というふうに、変えたのだと説明しています。


さらに、この演説では、布達の年を正造は明治14年にしたのですが、「前に言ったことと1年のずれがあるので、これを(正造は)13年に訂正した」と書くのです。


それだけではありません。正造は自分のついた嘘のつじつまを合わせるために、更なる嘘を重ねたその経過を、東海林は正直に説明するのです。
原文を引用しましょう。


「さらに田中は、藤川がこの布達を打ち出したために左遷されたという説を作り上げるために、明治13,14,15年と、3年つづけて同様の布達をだしたという3年連続説に作り変えていく。なぜなら、藤川の島根県(知事への)転出(人事異動)は明治16年10月のことであり、13年に布達を出して左遷されたというのでは、この説は成立しないからである。もともと虚構の藤川県令(知事)布達は、それを打ち出した本人によって、こうしてさらに作り変えられていくのである」


田中正造という生まれつきの嘘つきが、嘘に嘘を重ねていかざるを得なくなった実態が、これでよくわかりますが、全く不思議なことに、東海林も菅井も、この嘘は正造が公害反対運動のひとつの戦略としてついた虚構だと解釈し、正造は他には嘘をついていないと思い込んでいるのです。
調べればすぐ分かるお粗末な作り話が、いったいどうして「戦略」になるのでしょう。


東海林は、当時警察当局も調査して正造の嘘を見抜いていた事実を資料で知り、正造のこの虚構は「負の要素」でもあったと、書いています。ところが、にもかかわらず、東海林は正造の発言をすべて信用してこの本を書いているのです。何とも不思議です。



東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・14

さて、年に3回もの大洪水があった異常気象の年、明治29年は、「6月30日の時点で公害防止のための紛鉱採集器が効かなかった時は、示談契約を見直す」という約束があった年です。
この本は、その示談契約の更改交渉の進展について、次のように説明しています。


「そして8月10日、植野村法雲寺で予定された、横尾輝吉ら仲裁委員と足利郡、旧梁田郡(この年3月足利郡に合併)、安蘇郡の8か町村の示談契約の更改交渉が流会し、永久示談の推進に事実上の終止符が打たれた」


この記述にどれほどのごまかしがあるかを、証明しましょう。
東海林と菅井が使った資料は、横尾輝吉の『足尾銅山鉱毒事件仲裁意見書』ですが、ここには概略次のように書かれてあります。


契約の更改期日の明治29年6月30日がきて、永久示談に応じなかった各村々の総代から、「公害防止用の粉鉱採集器は効かないからまた仲裁を頼む」との要望があった。
そこで、栃木県の県会議長の横尾は古河市兵衛にその旨を伝えたところ、「それでは仲裁を頼む」との返事だったので、8月10日から安蘇郡植野村の法雲寺で、被害地の総代諸氏と交渉する手はずを取った。


ところが、かつて経験したことがない大洪水が8月7日から15,6日にかけてあって、交通途絶で流会になり、さらに9月にまた大洪水があって、その下旬から「鉱業停止の請願に賛同する村人が続々現われたため、仲裁の件は取り消したい」と、総代たちが主張し始めた。


10月初旬、宇都宮の旭日館で仲裁委員会を開いたところ、被害民総代らは明治26年7月から29年6月までの損害金として、次の要求をしてきた。
安蘇郡植野村は10万8031円
同郡界村は10万8172円
足利郡久野村は8万5376円
同郡筑波村他5か村が13万301円


10月中旬、仲裁委員が上京して古河市兵衛にこの金額を伝えたところ、「この前の示談金額に比べて非常に多額だし、考えさせてほしい」といわれた。


11月初旬に上記の村の総代数人が来て、「要求した示談金ももらうが、鉱業停止の請願もするので、ご承知願いたい」と念を押して帰った。


示談契約の更改は、永久示談契約をしなかった人を対象にしたわけですから、「交渉が流会し、永久示談の推進に事実上の終止符が打たれた」という著者たちの説明は、この交渉は永久示談ではないので明らかに完全な間違いです。


上のデータからは、更改交渉をした被害民たちが相当に高額な示談金を新たに要求したことが分かります。したがって、


「このような金額で、過酷な永久示談に被害住民を屈従せしめることができたのは、国内政局の危機を転化する侵略戦争ー天皇制支配権力によって準備、主導された日清戦争が、被害農民を国家の名のもとに、強制したからだといえよう」


という著者たちの説明(第9回目を見てください)は、全く架空の話しだということが分かります。

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・13

著者たちは、明治29年の大洪水の前後の田中正造の行動を、この本で次のように書いています。


「正造は、7月の洪水以来、被害町村の請願運動の組織化に着手し、9月の大洪水の直後、協力者の伊藤章一名義で、農商務大臣宛の<足尾銅山鉱業停止請願(草案)>を被害町村に配布した。この草案は、被害町村が個別に提出する請願書の雛形であると同時に、鉱業停止請願の根拠を論理化し、請願運動の組織化に向けての教育と宣伝を兼ねたものであった」


ところで、請願すべき当事者は鉱毒の被害者であるはずです。その草案を、どうして被害者ではない田中正造が作成し、当事者に「教育と宣伝」をしなければならないのでしょう。


被害の程度は被害を受けた人がもっともよく分かっており、農商務大臣にどう訴えればいいかは、彼ら自身が決めるべきはずです。
しかも、この草案を自分で書いていながら、正造は伊藤章一名義にしたと著者は言っています。何のためにそうしなければならないのでしょう。
この伊藤なる人物は、正造の知人の鹿児島県人だということですが、これにも驚きます。わざわざ事情を知らないのが明らかな九州人を名義人にする理由はありませんし、それはかえって逆効果です。
このことから言っても、正造がいかに思慮の足りない人間であるかがわかります。


この本からの引用をつづけます。


「こうした田中の努力によって、9月27日に旧梁田郡全部が、10月2日には植野村を除く安蘇郡全部が、鉱業停止の請願を行うことに決定した」


「10月5日、さらに田中は両県10日町村有志とともに、群馬県渡良瀬村の雲龍寺に<群馬栃木両県鉱毒事務所>を設けた」


だが、植野村は示談にも執着したので、救済会との関係を絶ち、請願運動に合流したのは11月7日のことであった。11月29日には、栃木県の安蘇郡、足利郡、群馬県の邑楽郡の38町村が結集し、その後さらに組織的拡充が進められた」


岩波書店の全集によれば、植野村と界村は、11月16日に足尾銅山鉱業停止願いを農商務大臣に提出しています。
しかし、県議会はこの動きには実質的に連動しなかったようで、この本はこれに続いて次のように書いています。


「群馬県議会は、12月4日、鉱業停止を求める内務大臣宛の<鉱毒の議に付き建議>を可決した」


「栃木県会は、12月に、12県議による内務大臣宛の<鉱業人に予防命令を下すことを求める建議書>が提出された」


つまり、県の段階では鉱業停止の請願はしなかったというわけです。


東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・12

前回説明したように、科学的・客観的に記述するなら、明治29年の異常に拡大した被害面積は、異常気象による大洪水に原因する、とすべきです。


にもかかわらず、この本の著者は、田中正造に扇動されて、巨大化した被害の原因を足尾銅山にあると思い込んで、古河市兵衛に鉱業停止を要求することに転換した被害民を正当化します。
そこで、次のように記述するのです。


「この鉱毒被害の拡大・激化は、粉鉱採集器による詐称と、予防措置を放置して示談契約を推進してきた古河と明治政府の欺瞞と不当性を、いっきょに白日のもとにさらした。そして、鉱業主(古河市兵衛)を相手とする補償要求ー示談契約から、鉱毒による生存権と公益の破壊を、政府の政治責任とする鉱業停止要求-請願運動へと大きく転換する契機となった」


異常気象という自然現象による原因を、「古河と明治政府の欺瞞と不当性」にしてしまうのですから、驚くほかありません。何という論理の飛躍でしょう。


足尾銅山が排出していた公害原因物質(鉱毒)は、明治29年の洪水以前と変わらないのです。
示談金で満足していた被害民が、それなのに何で足尾銅山の閉鎖まで求めるのでしょう。全く意味がないではありませんか。


著者たちは、事実を記述しているのではなく、古河や明治政府を悪者と見て、主観を読者にぶつけているに過ぎません。何ともお粗末ではありませんか。
なぜ著者たちがこのように理不尽な主張をするかといえば、それは、田中正造の言動を絶対的なものと考えているからです。


次回に理由を説明しましょう。

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・11

この本は、「鉱業停止を求める農民の鉱毒反対闘争」が、「軍備拡張を推進する明治政府」と対決していたため、と解釈するとともに、当然のことながら、明治29年の異常気象に基づく渡良瀬川の大洪水のためだ、とも解釈しています。


そして、かなり詳しくこの自然現象の説明をしています。しかし、異常気象はいつの間にか鉱毒に変化しているのです、引用しましょう。


この年は異常気象のつづく年であった」


「梅雨は7月になっても降りつづき、時として豪雨となった。20日の豪雨では、渡良瀬川は約5メートルも増水し、堤防を流れた鉱毒水は流域一帯の農地に冠水した。こうして、鉱毒被害は確実に拡大・激化の方向をたどった。豪雨は8月になっても降りつづき、7日から15,6日にかけてまたしても洪水となった」


「8月下旬になると暴風雨が続き、30日から31日にかけて、渡良瀬川は約6尺(1.8メートル)あまりも増水した」
「9月8日に至って、豪雨降りしきる中で渡良瀬川が氾濫し、堤防は各所で決壊した。翌9日も豪雨は止まず、渡良瀬川の水量は2丈4尺(約7.2メートル)にも達し、決壊した堤防からは濁水が大音響とともに流域のうちを襲ったのである」


「被害地域は1府5件11郡136か町村、被害農地面積4万6723ヘクタール、被害総額2782万9,856円にのぼった。総額は足尾銅山の年産額の10倍に達したのである」



皆さんは、この記述を素直に受け入れることが出来ますか。


著者が説明しているように、この年は異常気象のために、例年とは比較にならない面積の田畑が洪水で冠水したわけです。したがって、その被害が鉱毒(汚染物質)に原因していると断言することは、完全に間違いです。


足尾銅山が排出していたに違いない公害汚染物質は、採取した銅鉱石の分量には比例します。しかし、洪水による冠水の被害面積と比例するはずはありません。


にもかかわらず、ここでは「鉱毒被害は確実に拡大・激化の方向をたどった」と説明し、被害農地面積も被害総額も、すべては古河鉱業鉱毒に責任があるように説明しています。


明治25年6月の正造の演説によれば、この時点での鉱毒被害面積は、1650ヘクタールほどでした。この数字は、23年秋の大洪水がもたらしたものです。
大洪水があれば、普通の年ならこの程度の被害があるとはいえます。


しかし、明治29年に被害面積がその30倍近くに達したからといって、それが鉱毒に原因するのだとは結論できるわけがありません。


科学的・客観的に記述するなら、明治29年の被害面積は、異常気象による大洪水に原因する、とすべきです。
つまり、著者たちは、明らかに根拠のない嘘をついており、読者はなんとなくそれにだまされているわけです。


東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・10

足尾銅山の公害問題は、加害者が被害者に示談金を支払うことで、解決したように思われました。

しかし、その支払いが終わった頃の明治29年の夏、7月から9月にかけて3回もの大洪水に見舞われたため、渡良瀬川沿岸の農地に未曾有の被害があり、多くの被害農民が加害者に対して強硬姿勢をとることになり、公害反対運動は激化しました。


彼らは、田中正造に強硬方針に影響されて、足尾銅山の操業を止めることを要求し始めたのです。

さて、この『通史足尾鉱毒事件』は、その理由が、この年の異例とも言える豪雨にあるはずなのに、明治政府の「日本帝国主義」「軍備拡張主義「日清戦争」「製鉄資本の政治的経済的支配力」などといった政治的な問題にあるとも強調するのです。


第3章の「日清戦後経営と被害の拡大・激化」から少し引用しますが、著者たちが、何とも幼稚な左翼思想に基づいて、読者を説得する試みをしているかが、これでよく分かると思います。


「日清戦後経営は、日本の支配層が朝鮮・清国をめぐる帝国主義列強の領土分割競争に参加するための政策であり、まさに日本帝国主義の原型といえるものであった」


「軍備拡張を課題とする殖産興業政策は、兵器、鉱工業生産設備、機械類などの輸入に見合う輸出の増大を図らなければならなかった。このとき、世界有数の産銅国として、対外支払い手段として、銅生産のもつ意義はきわめて重要であった」


「先進資本主義国においては、<鉄は国家なり>との言葉に示されるように、製鉄資本の政治的経済的支配力は、きわめて大きかった。これに対して、近代工業生産体系成立への過渡的役割を担う銅生産は、まさに<鉄は国家なり>と呼ぶに価する比重を占めていたのである」


「足尾銅山は、輸出および内需の両面から、帝国主義的生産の枢要な一翼を担っていた。したがって、足尾銅山に対する鉱業停止を求める農民たちの鉱毒反対闘争は、必然的に、軍備拡張を軸として日清戦後経営を推進する明治政府と対決する、という性格を持たざるを得なかったのである」


公害の被害を説明するのに、何で、このような左翼思想を持ち出さなければならないのでしょう。

明治政府も、それを支えている大多数の日本国民も、欧米諸国に追いつこうとして、ひたすら経済力をつける努力を続けていました。

そのような時代ですから、足尾銅山が特別に「帝国主義的生産の枢要な一翼を担っていた」わけではないはずです。


足尾銅山は、たまたま優秀な鉱脈を発見したために、異例とも言える生産力を持っていたに過ぎません。

被害農民も、明治政府が「軍備拡張」のための経済政策を進めているという意識も、そのために政府と対決する意識もなかったはずです。

彼らは、ただ田畑が元に復旧すればよかったはずです。

だからこそ、公害がなくなった時点で「鉱業停止を求める」闘争をやめているわけです。


いったいどうして、農民が「明治政府と対決」したなどという解釈が出来るのでしょう。わけがわかりません。

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・9

「永久示談契」なるものについては、内水護編の『資料足尾鉱毒事件』にある『足尾銅山鉱毒事件仲裁意見書』という、当時栃木県会議員だった当事者の横尾輝吉らがまとめた資料に、相当に詳しく説明されています。


「その後(最初の示談契約の後)、被害人民と銅山主と熟談の上永久示談契をしたのは、次の例のごとくである」


「1、金2000円也、明治28年3月16日、下都賀郡部屋村外4か村被害地主総代小倉嘉十郎外28名、古河市兵衛殿、保証人○○(2人)、明治25年8月25日付けご契約の次第もあるが、今般協議の上、さらに頭書の金額貴殿より領収つかまつり候事確実なり。したがって、どんな事故が生じても、損害賠償その他苦情がましいことは一切申し出ません。前回の契約は、本日をもって無効になります」


「このような例があって、下都賀郡に属する被害地はすべて永久示談となった」


さて、東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』は、こうした永久示談の結果を、次のように説明しているのです。


「永久示談の金額をみると、栃木県の場合、第1回の示談が1反歩平均1円70銭であったが、第2回示談ではそれより低く、1円40銭であった。総額も第1回の約10万9000円に対し、約6万4,000円と抑えられていた」


「このような金額で、過酷な永久示談に被害住民を屈従せしめることができたのは、国内政局の危機を転化する侵略戦争ー天皇制支配権力によって準備、主導された日清戦争が、被害農民を国家の名のもとに、強制したからだといえよう」


この説明は、明らかに読者をだましています。
上の数字の「1反歩平均1円70銭が1円40銭に下がった」ということは、ありえません。
田中正造の発言からも、上記の「下都賀郡部屋村外4か村被害地」のケースからも、示談金が上がったことは明白ですし、そもそも、農民が前より金額的に不利な契約を結ぶわけがないはずです。


前記の『足尾銅山鉱毒事件仲裁意見書』によれば、第2回の示談契約をした被害民は5127人で、第1回の契約者は8414人ですから、3000人以上は第2回の永久示談に応じていません。ですから、総額や平均額で比較しても意味がありませんし、契約金額は被害の程度によって違うので、比較することも不可能です。


因みに、『仲裁意見書』では、初回の示談金総額は7万6602円6銭、永久示談金の総額は3万4119円3銭となっています。
契約者数が違うのに、その総額を示して、契約金額が「抑えられていた」と説明するのは明らかにごまかしです。、この本の著者は何とまあひどい詐欺師たちなのでしょう。


しかも、「侵略戦争ー天皇制支配権力による日清戦争が、被害農民を国家の名のもとに強制した」と説明するに至っては、馬鹿馬鹿しくて、あいた口がふさがりません。

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・8

一旦示談契約なるものが成立したのに、なぜ途中で「永久示談契約」なるものへの変更がなされたのでしょう。


『通史足尾鉱毒事件』にはその理由も内容も、何一つ説明されていません。

しかし、想像すれば理由はすぐ分かります。

企業経営は、赤字が大きくなって収支のバランスが成り立たなくなれば破綻しますから、支払う側の加害企業は被害農民に支払う示談金を出来るだけ減らそうとします。

一方、被害者側は、当然のことながら出来るだけ多額の示談金をもらおうとします。

その結果、会社側は、「今後これ以上の要求をしない」という条件で、すでに契約した示談金よりも多額の金額を支払うという提案をし、受け取る側の農民はその方が有利だとわかればこの提案を呑むはずです。


こういう、きわめて当然の交渉が行われて、「永久示談契」なるものが実現したと考えられます。

にもかかわらず、著者は全く一方的、強制的に古河が永久示談契約を推進したと説明しているのです。

これは、明らかに虚偽説明です。


この本によれば、最初の示談契約では、「示談金額は(栃木県の場合)、1反歩平均1円70銭だった」ということです(6回目の記事を見てください)。


しかし、明治29年3月25日に国会に提出した質問書で、田中正造は「永久示談契約」に関して、「田畑1反歩に付き各3、4円宛ての金を与え、しかして爾後永遠苦情を申したてまじく旨の書類を認めて強制的に、これに捺印せしむるの処置をとれるもの」だ、記述しています。


正造は嘘ばかりついているのでこの数字も嘘だということが、この日の国会での演説で「人民に1反につき2、3円金をやるから、これで永世子々孫々まで苦情を言うなという書き付けを取り、判を強奪した」と発言していることからも、はっきりわかります。


彼の挙げる数字のいい加減さはともかく、「永久示談契約」の方が、受諾した農民にとってはるかに有利だったということは、これでよく分かります。


正造の発言は絶対信用できないという証拠をここで紹介しましょう。


彼はこれより1年前の明治28年3月16日の村山半宛の手紙には、次のように、金額を「5円以内」と書いているのです。


「鉱毒地方田畑1反につき5円以内を一時に恵与して、被害人より永世子孫に至るも、苦情がましき儀申し出まじく云々の証文を、古河市兵衛へ差し出す大干渉を、足利郡樺山郡長、旧梁田郡県会議長長真五郎、同長裕之、早川忠吾ら、皆古河の奴隷となり、番頭となり、手代となり、犬となり猫となり、被害村々運動、強いて調印奪取、日夜奔走中にて、足利、梁田村々中気弱な人々および小欲の人々、私利目前汲々の人々、この威嚇的利欲的の二途に迷いこまれ、すでに植野、界村まで侵入いたしたりとのこと」


田中正造が勝手に根拠もない作り話を、周りの人々にばらまいていたことも、これでよく分かると思います。嘘の話をでっち上げるほど簡単なことはないわけです。