岩波新書の『田中正造』・11 | 足尾鉱毒事件自由討論会

岩波新書の『田中正造』・11

前回述べたように、明治34年の秋には公害防止工事の効果が現われ、被害民の反対運動も以来消滅しましたが、12月10日、正造は明治天皇への直訴を敢行するのです。

たった一人の氾濫でした。


直訴状には、鉱毒のために「数十万の人民のうち、飢えて食なく病んで薬なきあり」とか、「肥田沃土は今や黄茅白葦、満目惨憺の荒野となれり」とか、「数十万の無告の窮民空しく雨露の恩を希うて干天に号泣する」など、最大級の形容詞で被害の過酷さが書いてありました。


明らかに、これは明治天皇への虚偽報告です。なぜこんな失礼を敢えてしたのでしょう。
正造の研究者たちも、公害防止工事の結果田畑が復旧していたことを否定するわけにはいかなかったのでしょう。彼らは、正造の直訴は「公害反対運動を活性化させるのが目的だった」との新説を唱え始めました。


由井正臣も同様に田畑の復旧を否定できず、この新説にも従わざるを得なかったのでしょう。岩波新書に次のように書いています。


「鉱毒世論の盛り上がりをとらえ(当時川俣事件の2審の裁判中で、新聞報道も盛んだった)、直訴という死を賭した行動によってこの世論をいっきょに国民的なものにしようとしたところにその狙いがあった」


実際、この直訴によって世論は一時的に盛り上がりました。しかし、それは東京においてであって、現地の農民たちの公害反対運動は、再発しなかったのです。
正造の意図は全く外れました。のみならず、翌々年の秋には、彼にとってもっと不都合な事態が招来します。