東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・25 | 足尾鉱毒事件自由討論会

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・25

川俣事件の裁判は、事件の翌年の明治34年10月には、舞台が東京控訴院に移されました。そのため、東京の新聞が直接取材することになり、足尾鉱毒事件は一躍全国的な注目を浴びました。
このことについて、この本は、概略次のように書いています。


「10月6日から12日まで、被害の状態・程度の鑑定が、被害農民に理解のある農科大学(東京大学農学部の前身)の教授横井時敬と農学士長岡宗好、同豊永真理を鑑定人とし、判事、検事、弁護士たちが同行して行われ、被告人と有志総代の案内により新聞8社の記者がこれを取材した。・・・そして、そのいたるところで、この世の地獄とも言うべき、被害地の惨状を目にしたのである」


さらにこの本は、10月9日に『報知新聞』の矢野政二記者が書いた現地のありさまを引用して、被害地の惨状を強調しています。


「全くおどろいた。・・・その被害が栃木・群馬両県のわたり、まるでこの世の地獄の体だ。人民の騒ぐのも無理はない。しかして政府が10年もこれを捨てておいたのは全くおどろいた」


しかしまた著者は、興味深いことに、新聞が農民側の主張に疑問を持った事実も、次のように報告しています。


「だが、新聞は必ずしも、被害農民の側に立ったわけではない。とくに、明治30年5月の工事以降も、銅山が鉱毒を排出しているという農民の主張には、ほとんどの新聞が疑問視し、あるいは否定的であった」


これを読むと、新聞社は裁判所によるこの「被害地臨検」から、鉱毒被害に同情したり疑問を持ったりしており、被害の程度については、判断は一様でなかったことが分かります。


「政府が10年もこれを捨てておいた」と書いている『報知新聞』の矢野政二記者は、明らかに事件に全く無知だったことが分かります。ですから「まるでこの世の地獄の体だ」も、信用できません。
しかも、著者は被害農民の言うことを「ほとんどの新聞が疑問視し、あるいは否定的であった」というのです。
著者はいったいどちらが真実だというのでしょう。さっぱりわけが分かりません。


このとき、新聞は、被害農地が「かなりな作柄」(『万朝報』10月12日)とか「激甚被害地以外は極めて豊作」(『朝日新聞』10月6日)などと書いていますし、この裁判の鑑定人、農学博士・横井時敬は、群馬県の多々良村の原武八の水田は1反歩当り3石余も収穫した(標準作で2石)、とまで報告しているのです(『足尾銅山鉱毒被害地臨検分析鑑定書』)。被害農民が嘘をついていることは、明白だったわけです。


この本の著者たちは都合の悪いデータは隠しているのです。ですから、書いている内容も矛盾してしまうのです。