足尾鉱毒事件自由討論会 -3ページ目

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・37

この本の第8章までを書いたのは東海林ですが、8章の最後を彼は次のように結んでいます。


「田中は、大正2年9月4日、73歳のたたかいの生涯を閉じた。遺言ともいうべき<最後のことば>に、つぎのような一節がある。<同情ということにも二つある。この正造への同情と正造の問題への同情とは分けて見なければならぬ。皆さんのは正造への同情で、問題への同情ではない。問題からいう時には、ここも敵地だ>(木下尚江が聞き取って書いたといわれる言葉)」


このように書いてから、東海林は以下のようにこの遺言を解釈して、読者に自説を伝えようとするのです。


田中は死を前にして、谷中村のたたかいの正義のゆるがぬ確信とともに、そのたたかいを貫いた密かな矜持を全身に感じることができる。いま田中を案じて集まったかつての仲間たちは、人民の連帯と共生の論理、鉱毒事件の本質を見失い、正義と人情のけじめもつかず、帝国主義国家という巨大な敵を支える側に巻き込まれている。ぜひ最後に言っておかなければならない。問題の本質からいえば、ここも敵地だ」


著者の東海林は、あくまでも正造の立場を正しいと認定し、彼の死の床に集まってきた活動家の農民たちを正しくないと認定しています。


いったいなぜなのでしょう。理由が分かりません。農民たちが正造に同情し、正造の闘いに同情しないのは素直にそう考えたからに過ぎません。彼ら農民たちは、「人民の連帯と共生の論理」とか「鉱毒事件の本質」とか、そんなわけの分からないことには関心がありません。それはどうでもいいことでした。


しかし、彼らは、田中正造が公害問題に真剣に取り組んでくれ、結果として政府と古河が公害防止対策を実施し、自分たちの田畑が平年作に戻ったので、死を前にした正造をお見舞いし、正造に感謝の気持ちを伝えようとしたのです。


自分たちのことを、「帝国主義国家という巨大な敵を支える側に巻き込まれている」などと勝手に解釈されるのは、完全な誤解ですし非常に迷惑であるはずです。それは事実ではないからです。


東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・36

著者の東海林吉郎は、正造が「平等福祉国家の理想を」見出す願望を抱いたという朝鮮について、次のようにその歴史的背景を説明します。


「明治40年7月、日本は朝鮮侵略政策をさらにおしすすめ、その行政権を剥奪した。ここから朝鮮人民の反日武装闘争ー義兵闘争が発生する。この先駆的朝鮮人民の武装蜂起を、田中は<朝鮮の今日は未来の安全を得る所以>(明治40年7月24日付け原田勘七郎宛の手紙)であると、明確にその意義を把握することができた。朝鮮にそそぐ親近感によるものである」


そして東海林は、さらに田中が社会主義革命を呼びかけているとして、次のように書きます。


「この義兵闘争は、また田中の意識を大きく触発した。すなわち、この年の10月、田中は矯風会での演説において、次のように呼びかけたのである。<社会人類の基礎に立って国家の革新、改革、革命を為すべきなり>」(明治40年10月18日に書かれた演説の草稿)


「(田中にとっては)谷中村復活は、革命的展望の彼岸にしか、望見することが不可能なのである。こうして田中は、たたかいの宣言を日記に盛り込む。<戦うべし。政府の存在せる間は政府と戦うべし。敵国おそい来たらば戦うべし。人侵さば戦うべし>」(明治44年6月9日の日記)


正造は、「政府と戦うべし」と叫びますが、立ち退きを迫られている谷中村の農民はそんな大それた考えなどもってはいません。抵抗する農民は少なくなる一方ですし、正造がいくら声を上げても状況は変わりません。立ち退き反対の声はどこからも上がらず、反対運動は孤立していたからです。


だから、正造が谷中の農民を相手に「革命を為すべきなり」などと夢のようなことを言っても、何の意味をもたなかったはずです。


東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・35

自らもマルクス主義者であろうとし、社会主義革命を目指そうと考えていたらしい著者の東海林吉郎は、日本政府に徹底して反抗する姿勢をとる田中正造を、社会主義革命の闘士として評価するに至ります。
そこで、次のように書くのです。


「田中は晩年にいたって、より国家批判を強めていく。そして日本を<君主専制の如く、また立憲の如>(明治44年11月20日の田中の日記)きものとし、ついに立憲国にあらざる君主専制国家と断ずる」


「(田中は)支配者の掲げる忠君愛国のイデオロギーを真っ向から批判の俎上に載せる。そして、帝国憲法体制の全面的な否定に向かっていくのである」


「このような天皇制・帝国憲法体制批判から、全面的否認にいたる過程で、革命の希求が押しとどめがたいものとなるのは、むしろ当然であった。田中の意識に、つねに国際的な困難な課題を担った国として、親近感をこめて見守りつつあった国がある。ロシアと日本と中国の干渉を余儀なくされた朝鮮である。かつての小国としての平等福祉国家の理想を、朝鮮に見出したいという願望を潜めていたからかも知れない」


この本を書いた当時、東海林たち左翼的な人々は、日本の殖民地だった時代の南北朝鮮(今の韓国と北朝鮮)に同情していました。
そこで、「革命の希求が押しとどめがた」くなり、日本の植民地になった朝鮮に「平等福祉国家の理想」を見出したという正造のことを、読者に伝えたいと思ったのでしょう。


東海林は、正造が「帝国憲法体制の全面的に否定」したと言っていますが、否定した後に現在の、民主主義にもとづく日本国憲法のようなものを考えていたとでもいうのでしょうか。何ともわけが分かりません。


ともあれ、この正造の思想が、遊水池をつくるために立ち退きを迫られている谷中村の農民を救うために、どのような役に立つのでしょう。何の役にも立たないはずです。

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・34

著者の東海林は、さらに、田中正造の言動は絶対的に正しく、彼に従わない者は裏切り者であると決め付けます。そこで彼は、この本で次のように書くのです。
何と単純でお粗末な思考なのでしょう。唖然とせざるを得ません。


「今や、かつて渡良瀬川流域の被害地を結ぶ鉱毒反対闘争は、谷中村一村の犠牲を承認し、見殺しにする他町村被害農民の離脱によって解体し、田中正造と谷中村残留民、他町村有志の少数のたたかいとなったのである」


「離脱した彼らは、人民の収奪強化によって日露戦争を遂行・勝利し、さらにアジア諸国侵略にのりだす日本帝国主義に、みずからの家と町村の維持発展を求め、支配者のイデオロギーによる農村秩序に組み込まれ、日本帝国主義を下から支えていったのである」


「また、かつて鉱毒反対闘争の中枢を担った左部彦次郎のように、栃木県土木吏となり、谷中残留民の切り崩し、買収の手先になるなど、行政側に寝返った者もあった」


足尾銅山の公害反対運動を主体的に闘い、結局政府や加害企業に公害防止対策を実施させ、被害農地を回復させた、当事者の「他町村被害農民」を、東海林は「日本帝国主義を下から支える者」と決め付け、当事者でない第三者の政治家田中正造や「谷中村残留民とたたかう」存在になったというのですから、驚きです。


さらに、この公害反対運動の最も優れた理論的リーダーで、自分の財産のすべてをそのために注ぎ込みつつ田中正造の行動を支え、結局何代にも渡る造り酒屋であった左部家をつぶしてしまった真面目な男を、正造の行動と共にしなかったという理由で「行政側に寝返った」とするのですから、唖然とするしかありません。


彼は、田中正造を絶対者に祭り上げてしまったため、正造に従順でない人々を裏切り者だと決め付けるほかないわけです。何と世間知らずの幼稚な青二才なのでしょう。


東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・33

東海林は、田中正造が国家に徹底して対立する意志を持っていたことに、ひどく共感しています。


そして、この二人にとっては、谷中村を遊水池に変えることは、国家の悪意としか受け止められないのです。
実際は渡良瀬川の洪水を防止することが目的であり、それによって沿岸住民を救済しようという善意の計画で、谷中村以外の沿岸住民も諸手を上げて賛同している以上、民主主義の原則から言えば、第3者が反対する理由はないはずです。


「時の国家によって、破壊・滅亡させられようとする谷中村に、みずから移り住むことは、相手の国家を否定し返し、国家以前の権利としての人民の生存権を主張してたたかうことである。このたたかいの中で、谷中村に残留する人民とともに、理想の自治を打ち立てることが、田中にとって、天国を新造することであったといえよう」


「明治37年3月、田中は、戦争で儲けをたくらむ者とこれに協力する悪魔へのたたかいをよびかけていた。<名を軍国に借りて社会を蹂躙し、私欲を逞しうせんとする悪魔を撲滅し、国民は国民の権利を保全することに努めよ>」


正造は、戦争をする者は悪魔であると決め付け、国民は戦争に反対する者だと単純に分類していますが、実際は、国民が支持するからこそ政府が成立しており、国民の多くが戦争に反対しないからこそ政府は日露戦争を遂行したわけです。


何で政府は悪魔で、「社会を蹂躙し、私欲を逞しく」したことになるのでしょう。
田中正造の考えている「国民」は、正造の理想としている社会主義思想を持った人のことで、大勢の一般国民とは違うほんの一部の日本人でしかありません。


東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・32

かなり重症の社会主義者であるらしい著者東海林吉郎は、正造が社会主義者ないしはそのシンパであることを発見して、感動を禁じえない様子で、次のように書きます。


「谷中の遊水池化計画は、早熟的な日本帝国主義の国内政策として捕えられるが、田中もほぼこれを理解していた。そして、日露戦争を前にして<ロシアは我が敵にあらず>と、社会主義への確信を深めてゆく」


「だから、彼はこう書く。<今の社会主義は時勢の正義なり。当世の人道を発揚するにあり。その方法の完全ならざると完全なるとに論なく、その主義において、この堕落国においては、もっとも貴重な主義なり>」


「田中は、日本がロシアに宣戦布告すると、これを<今や海外交戦の日に当って、なお国民を蔑視し、虐待し、貧苦疾病毒をもって殺す>と、怒りをもって迎える」


「さらに、<正造は今日といえども非戦論者なり。倍倍非戦論の絶対なるものなり>と、政府の戦争政策と鉱毒政策に自らを対置させて、この年7月、予告通り谷中村に入ったのである」


しかし、「谷中の遊水池化計画」が、いったいどうして「日本帝国主義の国内政策」なのでしょう。


いったい「日本帝国主義」など存在したのでしょうか。日本の政治家が帝国主義などという思想を持っていたとは、到底考えられません。だから、極左的思想に凝り固まった東海林が勝手に作り上げた観念にすぎません。


田中も東海林も「政府は悪で社会主義は善だ」と勝手に決めているだけ。二人とも何ともお粗末で幼稚な夢想家としかいえません。

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・31

著者東海林吉郎は、その文章から判断すれば、まぎれもなく左翼思想に凝り固まった重症の観念論者だ、ということが分かります。


というのは、彼は田中正造の言動を、次のように表現しているからです。まるで世間知らずの大学生、全学連の過激派みたいです。


「田中の直訴は、帝国憲法体制の頂点に立つ天皇にすがるという形態をとりながら、天皇制における暴力装置の発動を引き出し、自らの死をもって、鉱毒世論の沸騰に点火し、退潮過程にある鉱毒反対闘争の活性化を図りつつ、政府の政策転換を求めようとするものであった」


「この時期、世界史はすでに帝国主義段階に突入し、帝国主義列強が領土獲得、市場再分割競争を繰り広げていた。日本もこれに呼応して朝鮮半島の権益を守り、満州にも商圏を拡大すべく、ロシアとの軍事的対決を準備していた。田中は、こうした満州問題を煽動するものとして、大倉、三井、三菱、浅野、古河などの名を挙げているように、これら特権資本の特質を明確に把握していた」


「しかも、彼らは、国内にあっては、古河のように、あたかも鉱毒被害地を治外法権同然に取り扱い、収奪の限りを尽くして、自国の弱き人民を侮る存在でもあった。そして軍備こそは、帝国主義政策をおしすすめる権力と資本の化身に他ならなかった。田中の非戦論が世界の陸海軍の全廃と不可分のものとして成立していた理由であった」


昭和30年代から40年代にかけて、左翼思想に毒された大学生たちは、このように、頭の中でだけ成立する、このような理屈の文章を書いたり演説したりしていました。
今では前世紀の遺物でしかない馬鹿馬鹿しい理論だとしかいえません。いったい誰がこんな抽象論を信ずるでしょう。


田中正造は公害反対運動の実践者だと信じて、彼ら幼稚なマルキストが食いついたのでしょう。しかし、正造は反対運動の指導者としては失敗者です。この運動の主体である被害農民は、例外なく正造から離れてしまっているのです。


東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・30

第2次の鉱毒調査委員会は、利根川と渡良瀬川およびその支流の大改修工事を行い、利根川と渡良瀬川の合流点付近に巨大な遊水池を建設しようという計画も立てました。

それは渡良瀬川の洪水を防止する対策だったので、洪水とそれに伴う鉱毒による田畑への被害に泣かされてきた沿岸の農民たちも、大いに賛成しました。


ただし、遊水池を造ることによって立ち退きを強制される谷中村の農民たちは、死活に関わる決定なので、当然大反対しました。

田中正造はその谷中の農民を応援したので、遊水池化大反対をその後生涯にわたって続けたわけですが、正造の方針を絶対とするこの本の著者は、政府のこの遊水池計画を次のように解釈します。


「渡良瀬川下流(つまり遊水池が計画された地点)の被害は、利根川の逆流水によるものであり、しかもこの鉱毒激甚の堤外無提地は、出水のたびに氾濫し、天然の遊水池の作用をもっている。したがって、ここに渡良瀬川の流量を一時遊水させ、本川の減水を待っておもむろに排水させる遊水池にするのが得策だ、というものだった」


つまり彼は、利根川が逆流すると言う正造のナンセンスな説を何の疑いもなく信じ込んで、政府の対策は間違っていると思いこんでいるのです。利根川の水は逆流するはずがないのに。


実際に谷中の遊水池が完成した後は、洪水が減り、被害がなくなり、農民の抵抗運動も起こっていません。

にもかかわらず、この事実を無視し、全くトンチンカンな解説をしているのです。

なんという時代錯誤なのでしょう。

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・29

この本は、政府が直訴による世論の盛り上がりを警戒した、とした上で内務省が明治31年に次の治水対策を実施したと書いています。
直訴は明治34年12月ですから時期が合いませんが、引用してみます。


「関宿(千葉県、利根川と江戸川の分かれる部分)の江戸川河口を石材とセメントで埋め、明治初期には26から30間あった河口を9間あまりに狭める一方、渡良瀬川の河口(利根川への合流点)を拡幅し、利根川の水が渡良瀬川に逆流しやすくしたのである」(小出博著『利根川と淀川』)。


「この工事によって、合流点付近の低地に氾濫が起こりやすくなり、水源地帯の荒廃と渡良瀬川の河床と相まって、報告書が天然の遊水池と呼んだ鉱毒激甚地と化していたのである。この関宿の河口の狭隘化と、渡良瀬・利根両川の合流点の拡幅の事実は、ごく少数の官僚委員しか知らなかったものと見られる」


あまりにもばかばかしいことが書いてあるので、空いた口がふさがりません。
皆さんは、「川幅を狭めたら流れる水はそこから逆流する」と思いますか?そんなことは決して起こりません。流れの方向とは逆方向に巨大な反力が働かなければ逆流しないからで、川幅を狭めてもそういう現象は絶対に起きないからです。


しかし、何とも幼稚なことに、東京大学農学部林学科卒、東京農業大学教授の小出博は、中央公論の新書に以下のように書くのです。


「明治政府は、鉱毒水が江戸川を下って東京府下に氾濫することを恐れ、(関宿の)棒出しを強化しながら渡良瀬川の河口(利根川への合流点)を拡幅して利根川の水が渡良瀬川に逆流しやすいようにしたのである」


実際にはありえない専門学者のこの珍説を東海林が採用したわけですが、もともとこの逆流説は、田中正造が言い続けたもので、正造に洗脳された小出がこの説を妄信したわけです。小学生でも分かるこんな虚言を、大学教授がどうして信じたのか、田中正造研究のスター的存在だった東海林がなぜこれを鵜呑みにしたのか、全く不思議です。


ともあれ、嘘を信じれば、次々と嘘をつかなければならなくなります。「(この事実は)ごく少数の官僚委員しか知らなかったものと見られる」も、明らかに嘘が嘘を呼んだ結果です。


東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・28

正造の直訴からひと月も経たない明治35年1月7日、明治政府(桂太郎内閣)は「第2次鉱毒調査委員会」の設置を閣議決定しました。

実際に設置されたのは3月17日です。


直訴後の世論の反応に影響されたのは間違いありませんが、明治政府は、足尾銅山の公害防止対策にはかなり自信を持っていたと思います。

というのは、この2回目の調査委員会は、足尾銅山の問題よりもその他の鉱山の公害の調査に大きな比重をかけていたからです。


調査報告書を見る限り、大部分は他の鉱山の公害のことで、足尾の公害防止工事への改善勧告(5回目の政府命令)は15項目にすぎません。

結論は、明治36年6月3日に公表されましたが、『通史足尾鉱毒事件』によれば、足尾の公害防止工事に関する部分は、


「鉱毒の根源は主として足尾銅山にあるが、明治30年の予防工事命令以前における鉱業上の排出物の、銅山一帯および渡良瀬川床に残留するものがその大部分を占め、現業に起因する鉱毒は比較的少部分に過ぎない」


でした。


つまり、「政府の公害防止対策は大成功だった」というものでした。

ところが、政府のこの結論に対して、著者の東海林は次のように書くのです。


「こうして報告書は、足尾銅山の企業責任を免罪し、鉱業の存続を保障したのである。この規定のもとに、さらに農作物の被害は、残留する多量の銅分と洪水による農地の冠水に原因があるという、鉱毒洪水両因説によって、鉱毒処分の根拠としたのである」

「ここから導きだされる処分案は、洪水の原因が、製錬にともなう煙害と山林伐採による水源地帯の荒廃にあることを全く無視し、もっぱら土木工事を中心とする洪水対策が中心となる。まさに鉱毒問題の治水問題へのすりかえであった」


政府がなぜ「企業責任を免罪した」のか、なぜ「鉱毒洪水両因説」になるのか、なぜ「鉱毒問題の治水問題へのすりかえ」なのか、理由は全く分かりません。

著者の立場に都合のいい結論がまずあって、それを述べているだけに過ぎません。つまり、政府と古河は悪人で、被害者は善人であるという単純論法を述べているだけです。


すでに2年前の秋には農地がかなり回復しており、予防工事の効果は明らかになっていました。農地の被害は、鉱毒と洪水の二つによることは明らかですから、鉱毒問題が解決された以上、次は洪水対策を進めようとするのは当たり前です。


いったい、それがどうして「するかえ」になるのでしょう。何の説明もされていませんかえら、当然説得力はゼロです。何ともお粗末です。