東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・19 | 足尾鉱毒事件自由討論会

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・19

この本は、政府によるあまりにも厳しい公害防止工事のことを、全く反対に解釈して、読者を嘘とごまかしで騙しています。
本文を引用しましょう。


「この命令書の欺瞞と空洞性は、工事完成後に責任者(命令を出した東京鉱山監督署長)が、足尾銅山の所長に就任した事実に象徴されるばかりではない」


「この工事が果たして実効があるものか、古河側すら危ぶんだのである。特に脱硫塔はどんな装置にすべきか成案を欠き、確信のもてない古河側の設計を、そのまま施工させるという馴れ合い工事であった」


事実を客観的に把握するには、双方の資料を並べてみることが望ましいと思いますので、古河鉱業の社史を引用します。


「専門家の中には、政府の命令とはいえ、不可能な事を強制することに対しては、断然これを拒むべきだと市兵衛に進言する者もいた。工事期間の延長を請願すべきだと説く者も現われた。しかし、市兵衛はこれを斥け、命令を足尾に伝え、工事の完遂を期したのである」


「沈澱池および濾過池は、狭隘の場所に大貯水池を設置する必要上、土地の選択が容易でなかった。ことに、通洞の沈澱池は再三設計変更しなければならなかった。加えてこれらの工事の期限は最も短急であった。にもかかわらず、期限内に完工できた(一番早い着工は5月29日、遅い竣工は7月24日)」


「脱硫等については、政府は具体的設計を明示しなかったから、きわめて苦慮した。すなわち、命令は、熔鉱炉など十数基の煙突から出る硫煙を一煙道に集め、亜硫酸ガスその他を除却すべしというもので、いかなる装置によるかについては何一つ示されていなかった。そのため、市兵衛は予防工事部に研究させて、硫酸製造のゲールサック塔をモデルに、塔の中に石灰乳を雨下し、これに硫煙を導いて亜硫酸ガスを石灰乳に吸収させる装置を設計させた。これが後に脱硫塔といわれることになる装置である」


二つの資料を並べてみると、客観的な事実が浮かび上がってくると思います。
政府の命令は工事期限を厳しく設定しており、それは常識的には不可能な期限だったこと、したがって、政府と古河の間に「馴れ合い」などなかったことがわかるはずです。


明治30年当時、公害防止のための脱硫の方法などあり得ません。技術レベルが今日とは全く違ったからです。にもかかわらず、この本はあたかも脱硫装置についても政府と古河の間に「馴れ合い」があったかのごとく嘘の記述をしています。


政府も技術がないから設計できず、古河もやむなく適当に設計して済ましました。その結果は当然効果など全くない脱硫塔が造られたわけです。これは馴れ合いではなく、試行錯誤をするしか方法がないわけなので、両方とも真剣に公害対策に対処していた証拠だともいえます。