東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・23 | 足尾鉱毒事件自由討論会

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・23

被害農民の救済策として、明治政府は、被害の重さに応じて税金(地租)を免除すること(免租処分)を実施しています。


その内容は、免訴の期間を15年間(特等)、10年間(1等)、8年間(2等)、6年間(3等)、4年間(4等)、2年間(5等)の6段階にわけ、土地にかける税金(今なら不動産税)を免除したもので、明治31年5月から施行しました。
この免租処分に関しても、この本の著者は次のような不平不満を述べています。


「こうして実施された免租処分は、真に被害農民の救済と自主に資するものではなかった」


「だが、それだけではない。被害農民が、地租の納付によって得ていた公民権と選挙権を喪失させたばかりでなく、地租などに依拠していた地方自治体の財源の減少あるいは枯渇をもたらしたのである」


「それは、救済のごとく装われた行政措置(免税処分)による人権の剥奪であり、地方財政の逼迫による町村自治の破壊と圧殺を伴うものであった」


「当時、選挙権は25歳以上の男子で、衆議院議員(国税15円以上)、県会議員・郡会議員(3円以上)、市町村会議員などの選挙にかかわる公民権は、国税を2円以上納めた者に限られていた。これが、免租処分によって選挙権・公民権の喪失となったのである」


いったいこの人たちは、どこまで欲が深いのでしょう。
そもそも政府に免租処分を求めたのは、被害民側です。


全集別巻の年表には、「明治31年2月群馬・栃木・茨城・埼玉4県68町村長および被害民総代、<鉱毒被害地特別免租処分請願書>を関係大臣に提出」と記してあります。
当然、被害民側は「選挙権・公民権の喪失」を承知で請願したはずです。


「町村自治の破壊」とありますが、当時は県知事も国家公務員で、中央政府の任命でしたから、町村自治など存在しませんでした。地方財政が逼迫したら政府と交渉すればいいわけです。


それに、被害農民の一人で、東京の「鉱毒停止請願事務所」に詰めていた室田忠七の行動に関して、この本は次のように書いてあるではありませんか。


「明治30年10月以降、室田は、帰郷して被害町村の免租請願の組織化に力を注ぎ、・・・さらに免租処分が決定して後は、被害調査中の納税延期請願、免租処分延期請願などの現地の運動の組織化と指導にあたった」


被害当事者中の指導的立場にある者が、積極的に免租を求めつづけていたのです。
何で第3者の著者たちが、不満を言う必要があるのでしょう。