東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・24 | 足尾鉱毒事件自由討論会

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・24

明治33年2月、有名な「川俣事件」が起こります。
被害民の一部が東京の政府に集団請願すべく大デモ行進を決行したのですが、川俣という所で警察側に阻止されて大勢の運動員が検挙された事件です。


この事件について、この本は、『下野新聞』の記事を次のように引用しています。


「実にその光景酸鼻に耐えざるものありき、警察権力なるもの、かくの如き点まで及ぼし得べきものなるか」(明治33年2月14日)


そして、デモ隊の数は、被害農民側によると、「1万2000人と号し」と下野新聞の記事(2月16日)を挙げているのですが、著者はまた、次のようにも書くのです。


「警察側は2500名とし、各新聞はこの警察発表をそのまま用いている。永島与八は3000余人、石井清蔵は3500余人とし、正確な数字は不明である」


実は、永島も石井も、被害民側にいた活動家ですから、事実に近い数字は2,500から3500人ということができます。
ですから、下野新聞の「1万2000人」は、デモ隊の幹部で逮捕された永島の「3000余人」とはかけ離れすぎており、信用できるはずがありません。


にもかかわらず、この新聞から、「実にその光景酸鼻に耐えざるものありき」との感情的な記事を平然と引用しているのですから、いかにいいかげんかということがわかります。


こんなことで、客観性が保たれるのでしょうか。保たれるはずはありません。ですから、この本は主観的で偏向しており、客観的な歴史を解説しているとはいえないのです。