東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・26 | 足尾鉱毒事件自由討論会

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・26

農学博士・横井時敬の鑑定書によれば、鑑定した20数個の田んぼのうち、5つは標準作の2石以上の収穫があって、鉱毒被害なるものは、このときかなり元の農地に回復していたことが分かります。


ところが、それなのにこの年の12月には、正造は、公害の被害を受けて悲惨な状態にある農民を救ってくださいと、明治天皇に直訴したというのです。
なぜなのでしょう。


この本の著者である東海林吉郎は、この直訴が、社会主義者の幸徳秋水と新聞記者の石川半山と正造の謀議によって計画され、3人が協力して実施したこと、直訴状も幸徳秋水がかなり前に代筆したことなどの新説を発表した人です。
ですから、直訴のことは詳しく解説しています。本文を引用しましょう。


「(直訴直後)幸徳は、自分が執筆した直訴状の写しを、通信社を通じて各新聞社に流した後、素知らぬ顔で(毎日新聞主筆の)石川と木下尚江のいる部屋を訪ねた。そして、<実は君たちに謝りに来た。田中正造が昨夜遅く直訴状の執筆の依頼にきた。僕だって直訴なんか嫌いだが、仕方なく書いてやった>と芝居を演じた」


「こうして、幸徳の芝居を真実と信じた木下は、そのことを著書に書くなどして、直訴における田中・石川・幸徳の謀議の存在とその真相を覆い隠す贋の証言者の役割を、1970年代まで演じつづけるのである」


「取調べに際し、田中はひたすら天皇にすがったものとする建て前を貫き、謀議を秘匿したので、不敬罪の成立する余地もなかった。こうして田中は、直訴の当日に釈放された」


この解説から、田中正造は、純粋に「悲惨な状態にある農民を救ってください」と明治天皇に直訴したわけではないのだということが分かります。
研究者がそういっているのです。つまり、公害による被害農地はかなり回復していて、農民も満足し始めていたので、彼らは直訴など望んでいなかったのです。


ですから、社会主義者との謀議で計画された田中正造の直訴は、実は全く別の目的で実施されたわけです。
著者の東海林吉郎は、直訴の本当の目的を、次のように書いています。


「天皇の慈悲にすがるのではなく、直訴という社会的な衝撃を狙い、それによって報道機関を動員し、世論の沸騰に点火し、退潮過程をたどる鉱毒反対闘争の活性化を図るとともに、政府の譲歩、転換を引き出そうとするものであった」


つまりは、正造の直訴は、被害農民を救うためではなく、社会主義者を弾圧する政府への抵抗運動を活性化する目的で行われたのです。
だからこそ、直訴状は、その後大逆事件で死刑になる社会主義者の幸徳秋水に書かせたのでしょう。
そうでなければ、死を覚悟したはずの直訴の文章を、鉱毒被害の実態を知るはずがない他人に書かせるわけがないではありませんか。


田中正造という男は、明治天皇までだましたわけです。