東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・35 | 足尾鉱毒事件自由討論会

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・35

自らもマルクス主義者であろうとし、社会主義革命を目指そうと考えていたらしい著者の東海林吉郎は、日本政府に徹底して反抗する姿勢をとる田中正造を、社会主義革命の闘士として評価するに至ります。
そこで、次のように書くのです。


「田中は晩年にいたって、より国家批判を強めていく。そして日本を<君主専制の如く、また立憲の如>(明治44年11月20日の田中の日記)きものとし、ついに立憲国にあらざる君主専制国家と断ずる」


「(田中は)支配者の掲げる忠君愛国のイデオロギーを真っ向から批判の俎上に載せる。そして、帝国憲法体制の全面的な否定に向かっていくのである」


「このような天皇制・帝国憲法体制批判から、全面的否認にいたる過程で、革命の希求が押しとどめがたいものとなるのは、むしろ当然であった。田中の意識に、つねに国際的な困難な課題を担った国として、親近感をこめて見守りつつあった国がある。ロシアと日本と中国の干渉を余儀なくされた朝鮮である。かつての小国としての平等福祉国家の理想を、朝鮮に見出したいという願望を潜めていたからかも知れない」


この本を書いた当時、東海林たち左翼的な人々は、日本の殖民地だった時代の南北朝鮮(今の韓国と北朝鮮)に同情していました。
そこで、「革命の希求が押しとどめがた」くなり、日本の植民地になった朝鮮に「平等福祉国家の理想」を見出したという正造のことを、読者に伝えたいと思ったのでしょう。


東海林は、正造が「帝国憲法体制の全面的に否定」したと言っていますが、否定した後に現在の、民主主義にもとづく日本国憲法のようなものを考えていたとでもいうのでしょうか。何ともわけが分かりません。


ともあれ、この正造の思想が、遊水池をつくるために立ち退きを迫られている谷中村の農民を救うために、どのような役に立つのでしょう。何の役にも立たないはずです。