東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・36 | 足尾鉱毒事件自由討論会

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・36

著者の東海林吉郎は、正造が「平等福祉国家の理想を」見出す願望を抱いたという朝鮮について、次のようにその歴史的背景を説明します。


「明治40年7月、日本は朝鮮侵略政策をさらにおしすすめ、その行政権を剥奪した。ここから朝鮮人民の反日武装闘争ー義兵闘争が発生する。この先駆的朝鮮人民の武装蜂起を、田中は<朝鮮の今日は未来の安全を得る所以>(明治40年7月24日付け原田勘七郎宛の手紙)であると、明確にその意義を把握することができた。朝鮮にそそぐ親近感によるものである」


そして東海林は、さらに田中が社会主義革命を呼びかけているとして、次のように書きます。


「この義兵闘争は、また田中の意識を大きく触発した。すなわち、この年の10月、田中は矯風会での演説において、次のように呼びかけたのである。<社会人類の基礎に立って国家の革新、改革、革命を為すべきなり>」(明治40年10月18日に書かれた演説の草稿)


「(田中にとっては)谷中村復活は、革命的展望の彼岸にしか、望見することが不可能なのである。こうして田中は、たたかいの宣言を日記に盛り込む。<戦うべし。政府の存在せる間は政府と戦うべし。敵国おそい来たらば戦うべし。人侵さば戦うべし>」(明治44年6月9日の日記)


正造は、「政府と戦うべし」と叫びますが、立ち退きを迫られている谷中村の農民はそんな大それた考えなどもってはいません。抵抗する農民は少なくなる一方ですし、正造がいくら声を上げても状況は変わりません。立ち退き反対の声はどこからも上がらず、反対運動は孤立していたからです。


だから、正造が谷中の農民を相手に「革命を為すべきなり」などと夢のようなことを言っても、何の意味をもたなかったはずです。