東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・28 | 足尾鉱毒事件自由討論会

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・28

正造の直訴からひと月も経たない明治35年1月7日、明治政府(桂太郎内閣)は「第2次鉱毒調査委員会」の設置を閣議決定しました。

実際に設置されたのは3月17日です。


直訴後の世論の反応に影響されたのは間違いありませんが、明治政府は、足尾銅山の公害防止対策にはかなり自信を持っていたと思います。

というのは、この2回目の調査委員会は、足尾銅山の問題よりもその他の鉱山の公害の調査に大きな比重をかけていたからです。


調査報告書を見る限り、大部分は他の鉱山の公害のことで、足尾の公害防止工事への改善勧告(5回目の政府命令)は15項目にすぎません。

結論は、明治36年6月3日に公表されましたが、『通史足尾鉱毒事件』によれば、足尾の公害防止工事に関する部分は、


「鉱毒の根源は主として足尾銅山にあるが、明治30年の予防工事命令以前における鉱業上の排出物の、銅山一帯および渡良瀬川床に残留するものがその大部分を占め、現業に起因する鉱毒は比較的少部分に過ぎない」


でした。


つまり、「政府の公害防止対策は大成功だった」というものでした。

ところが、政府のこの結論に対して、著者の東海林は次のように書くのです。


「こうして報告書は、足尾銅山の企業責任を免罪し、鉱業の存続を保障したのである。この規定のもとに、さらに農作物の被害は、残留する多量の銅分と洪水による農地の冠水に原因があるという、鉱毒洪水両因説によって、鉱毒処分の根拠としたのである」

「ここから導きだされる処分案は、洪水の原因が、製錬にともなう煙害と山林伐採による水源地帯の荒廃にあることを全く無視し、もっぱら土木工事を中心とする洪水対策が中心となる。まさに鉱毒問題の治水問題へのすりかえであった」


政府がなぜ「企業責任を免罪した」のか、なぜ「鉱毒洪水両因説」になるのか、なぜ「鉱毒問題の治水問題へのすりかえ」なのか、理由は全く分かりません。

著者の立場に都合のいい結論がまずあって、それを述べているだけに過ぎません。つまり、政府と古河は悪人で、被害者は善人であるという単純論法を述べているだけです。


すでに2年前の秋には農地がかなり回復しており、予防工事の効果は明らかになっていました。農地の被害は、鉱毒と洪水の二つによることは明らかですから、鉱毒問題が解決された以上、次は洪水対策を進めようとするのは当たり前です。


いったい、それがどうして「するかえ」になるのでしょう。何の説明もされていませんかえら、当然説得力はゼロです。何ともお粗末です。