東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・31 | 足尾鉱毒事件自由討論会

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・31

著者東海林吉郎は、その文章から判断すれば、まぎれもなく左翼思想に凝り固まった重症の観念論者だ、ということが分かります。


というのは、彼は田中正造の言動を、次のように表現しているからです。まるで世間知らずの大学生、全学連の過激派みたいです。


「田中の直訴は、帝国憲法体制の頂点に立つ天皇にすがるという形態をとりながら、天皇制における暴力装置の発動を引き出し、自らの死をもって、鉱毒世論の沸騰に点火し、退潮過程にある鉱毒反対闘争の活性化を図りつつ、政府の政策転換を求めようとするものであった」


「この時期、世界史はすでに帝国主義段階に突入し、帝国主義列強が領土獲得、市場再分割競争を繰り広げていた。日本もこれに呼応して朝鮮半島の権益を守り、満州にも商圏を拡大すべく、ロシアとの軍事的対決を準備していた。田中は、こうした満州問題を煽動するものとして、大倉、三井、三菱、浅野、古河などの名を挙げているように、これら特権資本の特質を明確に把握していた」


「しかも、彼らは、国内にあっては、古河のように、あたかも鉱毒被害地を治外法権同然に取り扱い、収奪の限りを尽くして、自国の弱き人民を侮る存在でもあった。そして軍備こそは、帝国主義政策をおしすすめる権力と資本の化身に他ならなかった。田中の非戦論が世界の陸海軍の全廃と不可分のものとして成立していた理由であった」


昭和30年代から40年代にかけて、左翼思想に毒された大学生たちは、このように、頭の中でだけ成立する、このような理屈の文章を書いたり演説したりしていました。
今では前世紀の遺物でしかない馬鹿馬鹿しい理論だとしかいえません。いったい誰がこんな抽象論を信ずるでしょう。


田中正造は公害反対運動の実践者だと信じて、彼ら幼稚なマルキストが食いついたのでしょう。しかし、正造は反対運動の指導者としては失敗者です。この運動の主体である被害農民は、例外なく正造から離れてしまっているのです。