東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・13 | 足尾鉱毒事件自由討論会

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・13

著者たちは、明治29年の大洪水の前後の田中正造の行動を、この本で次のように書いています。


「正造は、7月の洪水以来、被害町村の請願運動の組織化に着手し、9月の大洪水の直後、協力者の伊藤章一名義で、農商務大臣宛の<足尾銅山鉱業停止請願(草案)>を被害町村に配布した。この草案は、被害町村が個別に提出する請願書の雛形であると同時に、鉱業停止請願の根拠を論理化し、請願運動の組織化に向けての教育と宣伝を兼ねたものであった」


ところで、請願すべき当事者は鉱毒の被害者であるはずです。その草案を、どうして被害者ではない田中正造が作成し、当事者に「教育と宣伝」をしなければならないのでしょう。


被害の程度は被害を受けた人がもっともよく分かっており、農商務大臣にどう訴えればいいかは、彼ら自身が決めるべきはずです。
しかも、この草案を自分で書いていながら、正造は伊藤章一名義にしたと著者は言っています。何のためにそうしなければならないのでしょう。
この伊藤なる人物は、正造の知人の鹿児島県人だということですが、これにも驚きます。わざわざ事情を知らないのが明らかな九州人を名義人にする理由はありませんし、それはかえって逆効果です。
このことから言っても、正造がいかに思慮の足りない人間であるかがわかります。


この本からの引用をつづけます。


「こうした田中の努力によって、9月27日に旧梁田郡全部が、10月2日には植野村を除く安蘇郡全部が、鉱業停止の請願を行うことに決定した」


「10月5日、さらに田中は両県10日町村有志とともに、群馬県渡良瀬村の雲龍寺に<群馬栃木両県鉱毒事務所>を設けた」


だが、植野村は示談にも執着したので、救済会との関係を絶ち、請願運動に合流したのは11月7日のことであった。11月29日には、栃木県の安蘇郡、足利郡、群馬県の邑楽郡の38町村が結集し、その後さらに組織的拡充が進められた」


岩波書店の全集によれば、植野村と界村は、11月16日に足尾銅山鉱業停止願いを農商務大臣に提出しています。
しかし、県議会はこの動きには実質的に連動しなかったようで、この本はこれに続いて次のように書いています。


「群馬県議会は、12月4日、鉱業停止を求める内務大臣宛の<鉱毒の議に付き建議>を可決した」


「栃木県会は、12月に、12県議による内務大臣宛の<鉱業人に予防命令を下すことを求める建議書>が提出された」


つまり、県の段階では鉱業停止の請願はしなかったというわけです。