東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・17 | 足尾鉱毒事件自由討論会

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・17

被害者側の立場からのみ見たこの「足尾鉱毒事件」は、また次のように書きます。


「足尾銅山鉱毒調査委員会の設置には、見落としてはならない側面があった。設置されたその日、内務省は被害県の知事に、大挙押し出しなど不穏の挙動に出ないことを説諭するよう通牒していた。つまり、調査会の設置は被害農民の運動の抑制をも狙いとしていたのである」


何と甘ったれた考えをするのでしょう。どんな歴史にも共通していますが、政府というものは大衆運動を絶えず抑圧しようとするものです。こんなことは当たり前のことではありませんか。
この本は、委員会の結論は、明治30年4月15日の時点で、次のようなものだったとしています。


1.足尾銅山付近の山谷に、速やかに砂防工事と植樹をする。
2.公害防止対策を検討する。政府がこれを実検して、費用を鉱業人に負担させるか、鉱業を停止させる。
3.渡良瀬川の鉱毒含有の土砂を、浚渫するか排除させる。


農商務省の坂野技師と東京大学の長岡助教授が、一時鉱業の全部もしくは一部の停止を命ずるべきだ、と主張したが、内務省の古市土木技監や鉱山学の渡辺渡前東大教授が反対して、このような結論に達したのだとのことです。
公害の加害企業に対して、このようにすばやく対処し、このように厳しく対応した実例はあったでしょうか。皆無のはずです。
責められることは、政府に何もないはずではありませんか。


この続きを引用しましょう。


「こうして、調査会は鉱毒予防命令の発動と、被害農地に対する地租免税からなる鉱毒事件処分を、政府の基本的要請に沿って打ち出すのである」
「一方、被害農民の直接行動などに対しては、弾圧政策で臨んでくるのである」
「明治30年5月27日、足尾銅山鉱毒予防工事命令が古河市兵衛に伝達された。その内容は、第1回(前年12月24日)、第2回(この年の5月12日)のそれとは比較にならない大規模なものであった」


著者たちが何気なく書いた上の記述から、私たちは重大な事実を知ることが出来ます。
委員会が設置される3ヶ月も前に、政府は第1回の予防命令を出していたことと、委員会が、第3回の本格的な命令の以前に、第2回の命令を発していたことです。


明治政府は、公害問題に対して、今の政府に比べて何と真面目に取り組んでいたのでしょう。改めて驚きます。
しかし、この本の著者たちには、農民を弾圧していたとしか見えないのです。これもまた驚きです。