東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・16 | 足尾鉱毒事件自由討論会

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・16

前回に書いた明治30年2月26日の正造の質問演説は、この本によれば、「被害農民の積年のエネルギーをいっきょに爆発させたように」刺激し、3月2日には2,000余人が第1回の大挙東京押し出し(デモ行進)を決行するに至ります。


3月5日、そのうちの45人の代表と群馬県の委員11人は、農商務大臣に面会して鉱業停止を陳情・請願したとのことです。
そして、この本は次のように書いています。


「この大挙東京押し出しは、・・・広く世論に訴えることをめざした政治闘争であった。そして世論は、うねるように盛り上がった」


本当に盛り上がったのでしょうか。私に言わせれば、これは、正造や被害農民の立場から見た主観であって、客観的な歴史的事実とは言えません。なぜかといえば、当時この動きに批判的な勢力も存在したからです(後述)。
ともあれ、被害農民は一挙に過激化していきます。


3月18日、栃木・群馬・埼玉・茨城の4県連合の「鉱業停止請願事務所」が、東京の新橋の正造の定宿・信濃屋に設置され、その日、被害民は第2回目の大挙東京押し出しをする決議までしました。


明治政府も、この動きを真剣に受け止めて、3月23日には農商務大臣の榎本武揚が被害地を視察し、帰京したその日の夜、正造の所蔵する党の党首で外務大臣の大隈重信に、その結果を報告しました。


その時刻、3月23日の午後9時には、大挙東京押し出しのために被害農民3600人が現地に集合し、翌24日の午前2時には、内、2000名が先発隊として東京に向けて出発しています。


さらにこの日、正造が帝国議会に再質問書を提出すると同時に関連演説を行うと、政府は直ちに臨時閣議を開き、「足尾銅山鉱毒調査委員会」の設置を決め、即日委員を任命した、ということです。
翌3月24日の夜には、なんと被害農民6000人による後発隊が東京に向けて出発しました。


何ともあわただしい動きですが、この動向から判断すれば、公害事件に対して、被害民側も政府も、昭和30年代以降と比較して何と真剣に対処したのでしょう。私には驚きです。


ところが、著者にはそのようには見えてきません。ひたすら被害者側だけを見ているので、警察によるモ隊への規制を批判して、政府が公害反対運動を弾圧したという書き方をするのです。次のように。


「取り締まり当局は、これに対して厳重な警戒態勢をしいた。千住署は南足立郡淵江・六月・保木村間に警察官数十名を配置、浅草署は五十名の応援警官、下谷署も応援隊を出して水戸街道の金町から荒川筋に配置した・・・」


しかしこの本は、被害者側と田中正造を善とし、政府を悪と見て記述しているので、これは客観的な歴史とはいえません。主観的で偏向した記録にしかなっていません

政府が大衆運動を規制するのは当たり前のことで、どの国の歴史を見てもそうしています。
歴史とは、客観的な事実の記述でなければなりませんから、被害者の活動と同様にデモ隊への規制も冷静に記録する必要があります。