東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・15 | 足尾鉱毒事件自由討論会

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・15

明治29年の7月から9月にかけての、異常気象による3回の大洪水は、渡良瀬川沿岸の農作物に大被害をもたらし、その原因がすべて足尾銅山からの廃棄物にあるかのごとき宣伝によって、古河鉱業は沈黙を余儀なくされました。


この本は、田中正造が、同郷の青山学院の学生である栗原彦三郎に頼んで、同学院院長の本多庸一の友人であるキリスト者の津田仙(農学者)に現地調査をしてもらい、キリスト教関係者にこの公害問題を知らせ、東京の人たちにも広くPRしたと説明しています。


明治30年の2月28日には、東京神田の青年会館で第1回の鉱毒問題演説会が開かれ、津田、正造、松村介石(キリスト者)、米人宣教師のガストルなどが演説して世論が盛り上がり、西南戦争で有名を馳せ、政治の世界にも影響力のある谷干城を運動の支援者に迎え入れることに成功した、とも書いてあります。
帝国議会での正造の活躍も再開されました。


明治30年2月26日、正造が質問演説で久しぶりに政府追及の火ぶたをきったのですが、著者の東海林は、ここで正造が最初に作った嘘、つまり、「明治13年には公害が発生し、渡良瀬川の魚は大量死して、その魚を売ったり食べたりしてはならないと警察が言った」という話を、その次の段階の嘘、つまり、「栃木県知事の藤川為親が布達した」というふうに、変えたのだと説明しています。


さらに、この演説では、布達の年を正造は明治14年にしたのですが、「前に言ったことと1年のずれがあるので、これを(正造は)13年に訂正した」と書くのです。


それだけではありません。正造は自分のついた嘘のつじつまを合わせるために、更なる嘘を重ねたその経過を、東海林は正直に説明するのです。
原文を引用しましょう。


「さらに田中は、藤川がこの布達を打ち出したために左遷されたという説を作り上げるために、明治13,14,15年と、3年つづけて同様の布達をだしたという3年連続説に作り変えていく。なぜなら、藤川の島根県(知事への)転出(人事異動)は明治16年10月のことであり、13年に布達を出して左遷されたというのでは、この説は成立しないからである。もともと虚構の藤川県令(知事)布達は、それを打ち出した本人によって、こうしてさらに作り変えられていくのである」


田中正造という生まれつきの嘘つきが、嘘に嘘を重ねていかざるを得なくなった実態が、これでよくわかりますが、全く不思議なことに、東海林も菅井も、この嘘は正造が公害反対運動のひとつの戦略としてついた虚構だと解釈し、正造は他には嘘をついていないと思い込んでいるのです。
調べればすぐ分かるお粗末な作り話が、いったいどうして「戦略」になるのでしょう。


東海林は、当時警察当局も調査して正造の嘘を見抜いていた事実を資料で知り、正造のこの虚構は「負の要素」でもあったと、書いています。ところが、にもかかわらず、東海林は正造の発言をすべて信用してこの本を書いているのです。何とも不思議です。