東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・10 | 足尾鉱毒事件自由討論会

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・10

足尾銅山の公害問題は、加害者が被害者に示談金を支払うことで、解決したように思われました。

しかし、その支払いが終わった頃の明治29年の夏、7月から9月にかけて3回もの大洪水に見舞われたため、渡良瀬川沿岸の農地に未曾有の被害があり、多くの被害農民が加害者に対して強硬姿勢をとることになり、公害反対運動は激化しました。


彼らは、田中正造に強硬方針に影響されて、足尾銅山の操業を止めることを要求し始めたのです。

さて、この『通史足尾鉱毒事件』は、その理由が、この年の異例とも言える豪雨にあるはずなのに、明治政府の「日本帝国主義」「軍備拡張主義「日清戦争」「製鉄資本の政治的経済的支配力」などといった政治的な問題にあるとも強調するのです。


第3章の「日清戦後経営と被害の拡大・激化」から少し引用しますが、著者たちが、何とも幼稚な左翼思想に基づいて、読者を説得する試みをしているかが、これでよく分かると思います。


「日清戦後経営は、日本の支配層が朝鮮・清国をめぐる帝国主義列強の領土分割競争に参加するための政策であり、まさに日本帝国主義の原型といえるものであった」


「軍備拡張を課題とする殖産興業政策は、兵器、鉱工業生産設備、機械類などの輸入に見合う輸出の増大を図らなければならなかった。このとき、世界有数の産銅国として、対外支払い手段として、銅生産のもつ意義はきわめて重要であった」


「先進資本主義国においては、<鉄は国家なり>との言葉に示されるように、製鉄資本の政治的経済的支配力は、きわめて大きかった。これに対して、近代工業生産体系成立への過渡的役割を担う銅生産は、まさに<鉄は国家なり>と呼ぶに価する比重を占めていたのである」


「足尾銅山は、輸出および内需の両面から、帝国主義的生産の枢要な一翼を担っていた。したがって、足尾銅山に対する鉱業停止を求める農民たちの鉱毒反対闘争は、必然的に、軍備拡張を軸として日清戦後経営を推進する明治政府と対決する、という性格を持たざるを得なかったのである」


公害の被害を説明するのに、何で、このような左翼思想を持ち出さなければならないのでしょう。

明治政府も、それを支えている大多数の日本国民も、欧米諸国に追いつこうとして、ひたすら経済力をつける努力を続けていました。

そのような時代ですから、足尾銅山が特別に「帝国主義的生産の枢要な一翼を担っていた」わけではないはずです。


足尾銅山は、たまたま優秀な鉱脈を発見したために、異例とも言える生産力を持っていたに過ぎません。

被害農民も、明治政府が「軍備拡張」のための経済政策を進めているという意識も、そのために政府と対決する意識もなかったはずです。

彼らは、ただ田畑が元に復旧すればよかったはずです。

だからこそ、公害がなくなった時点で「鉱業停止を求める」闘争をやめているわけです。


いったいどうして、農民が「明治政府と対決」したなどという解釈が出来るのでしょう。わけがわかりません。