足尾鉱毒事件自由討論会 -31ページ目

日経から訴えられる②   

古河市兵衛のその伝記は、『 運鈍根の男―古河市兵衛の生涯 』という書名で晶文社から出版されました(2001年3月5日)。
ところが、出版後まもなく記事を書いた日経の編集委員・小島ひでき記者から抗議がきました。晶文社に送られてきたそのファックスには、


「(私の)文章をきちんと引用されたら砂川氏の記述は成立せず、名誉毀損に当たるとみております。このような不当な記述がまかり通ることは、きわめて迷惑なことです。小社法務担当者との話し合いをもたれるよう希望いたします」


と書いてありました(4月10日)。
電話やファックスでの応酬が続いた後、パレスホテルのラウンジで日経法務室と晶文社編集長との話し合いが持たれましたが不調に終わりました(4月27日)。
すると、日本経済新聞社の顧問弁護士が晶文社社長と私に宛てて、内容証明つきの「警告書」を送ってきたのです(5月11日)。

「あなた方は、本件記事の著作者である日本経済新聞社の名誉を毀損したので、この本の印刷、製本、発売、頒布を中止し、これを回収・破棄し、同社に文書で謝罪することを求める。この要求に応じられない場合は、損害賠償を含むあらゆる法的手続きを開始する」


といった内容でした。
そこで、こちらも晶文社の顧問弁護士に、「日経の記事に対する砂川の批判は正当な言論活動であり、そちらの要求には応じられない」という反論を、相手の顧問弁護士に宛て内容証明郵便で送ってもらいました(5月23日)。
しかし、日経は2ヶ月少したって、晶文社と私とを正式に訴えてきたのです(8月1日)。
それは、晶文社と私に1千万円の損害賠償を請求し、本書の印刷、製本、発売、頒布の禁止、書店からの回収・廃棄、謝罪広告を求めたものでした。
「読者に本当のことを伝えたい」と思って日経の記事を批判したことが、このような大ごとを招いてしまったわけです。

日経から訴えられる①

小坂銅山(秋田)の経営者・藤田伝三郎の伝記を書いたとき、足尾銅山(栃木)のオーナー・古河市兵衛の方が欧米の新技術の導入でははるかに先行していた事実を知りました。
そこで、古河市兵衛の伝記を書くことにしたのですが、その下調べ中に足尾銅山の鉱毒問題に直面した折、市兵衛が鉱毒の防止に巨金を投じて巨大施設を建設したことを知って、ひどく意外な感じを受けました。
私の頭には、そんな事実などインプットされていなかったからです。「これは面白いぞ」と思いながら、そのあまりにも過酷な鉱毒防除工事(工事期限が極端に短かかった)に関してもかなりのページを割きました。
そして、本を書き終える頃には、悪人的なイメージだった古河市兵衛は、経営者として抜群にすぐれた、しかも誠実な人に代わっていました。
一方、被害農民のために命を懸けて闘ったイメージの田中正造は、意外な裏面があることがわかってきました。たまたま、日本経済新聞の大きな連載記事に正造の国会演説が引用されていたのですが、その内容は明らかにうそでした。
その演説とは、別子銅山の「住友」を誉め足尾銅山の「古河」をけなしたものなのですが、引用のあと記事は「義人田中が手放しで称賛するほどに、この山(銅山)を改革したのが(住友の総理の)伊庭貞剛である」とつづいていました。
口からでまかせの、何の根拠もないデタラメ演説を基準に人物評価をするなんて、なんてひどい記事だろう。そう思ったので、本の中で「田中正造がいくら尊敬に価する人物だからといって、彼が作ったデタラメの話まで、何十万という読者に真実らしく報道するのは罪つくりではないか」と、その記事を批判したのです。

布川さんからの反論④

布川了さんの手紙には、また次のようなことが書いてありました。
 
世には皇国史観・唯物史観とか、さては司馬史観などといわれるものがある。お前は何だときかれれば、わたしは「事実史観」ですと答える。何よりも事実を知ること、その点では砂川さんからも学ぶことがあろうし、意見も交わしたいと思った。ところが「話し合いの必要はない」と拒否された。
だが、確かに鉱毒事件を田中正造の創作劇と断定しているとすれば、そして「自分はあくまで正しいと思っていらっしゃるようなので」と私のことを決めているようなので、とても困難な事だと知らされて残念でならない。
しかし、私の尊敬する田中正造の研究者からは、「このような本は、そのうち自然に淘汰されていくのではないでしょうか。事実認識の誤りもたくさんあります。それを指摘せざるを得ない布川さんのお気持ちもわかりますが、こんな人を相手に貴重な時間を浪費するのは無駄ではないかとさえ思います。騒げば騒ぐほど相手の思う壺ではないかと心配しています」と忠告があった。
とにかく、正誤表は読者のためにつけてもらいたい。
 
私は「正誤表などつける必要はありません」という返事を出しました。

あっこちゃんからの手紙

「足尾歴史館」に関する話のつづきです。ここを運営する市民グループの一人である主婦、自称「あっこちゃん」からも、私に宛てて手紙が来ました。
前回に続き、これもまたその一部を紹介します。


足尾のガイドをするにあたり、こんなことを言われました。
「足尾に対して何を語ろうと、公害を出したには違いないんだから」と。
付け加えて、水俣病のチッソとかと、同じ扱いの言われ方をされました。しかし、公害防止工事に関しても、誠意が違います。
もう一つは、世界遺産の話が出ていることを言ったとき、「これ以上また恥の上塗りをするのか」という返事が返ってきました。
しかし、私は両方とも反論することができませんでした。せいぜい心の中で違うと。本当に情けないと思いました。だれにとっても難しいのです。みんな知らないのです。何が真実か。
だからこの本を読んでほしいと思います。
みんながえらいと思っている人を、批判するなど、書かずに知らんふりをします。この方がいい人でいられるし、楽なのです。
みんな一言で知っているようなふりをします。一方が毒を流した悪い奴、一方は弱い農民を救った偉い人。
そして田中正造はお国自慢になるのです。それがくつがえったら大変なことになるのです。
今、私は足尾を誇りに思っています。そしてこの本が出たことで、もっと心強く思っています。


5月11日付の「あっこちゃん」からのハガキによれば、足尾歴史館の入場者は1000人を越えたということです。

足尾楽迎員のこと

「足尾歴史館」の話を続けます。
住民グループの「足尾楽迎員協会」は、江戸時代以降銅山とともに歩んできたこの町のことをもっと知りたいと、平成13年から月一回の学習活動をしてきました。
そして、その歴史や、今も残る産業遺産を多くの人に伝えたいという気持ちから、ガイドブックを作ったりしていました。その過程で、どうしても住民自らの手で「場を提供する施設」を持とうと考え、町立の旧スケート場を借用して、今回「足尾歴史館」を開設したのです。
私の『直訴は必要だったか―足尾鉱毒事件の真実』は、開設の半年前に発刊されたので、楽迎員協会の皆さんにとってはピッタリのタイミングでした。この本の読後感を、会長の長井一雄さんは手紙でこう書いてきました。

「歴史がひっくり返る。正しく今回の本は私達が始めようとしている根源になることで、とてもドラマを感じます。しかし実に残念ながら足尾の住民たちの多くが足尾を語れない、自信をもって誇りを持って語れないのが事実です。」
「そんなときの本ですから、勇気を持って堂々と知らしめてゆく絶好のチャンスになりますし、事あるごとに説明ができるバイブルのような気持ちでいっぱいです。私は砂川さんの勇気に感服し、エネルギーを与えていただきました。」

足尾歴史館オープン

NHK総合テレビでも報道されましたが、去る4月2日、かつて日本一の銅山として盛況をきわめた栃木県足尾町に「足尾歴史館」がオープンしました。
これは、住民グループが独力で設立した全国的にも異例の郷土資料館で、「足尾楽迎員協会」(会長は長井一雄さん)の会員である住民が、訪問者を「楽しく迎える」をモットーにガイド役をつとめます。
足尾といえば、「公害の原点」などと負の面だけが強調されがちですが、日本の近代化に偉大な貢献を果たした光の側面も発信する意図をもって、運営するとのことです。この意味で、足尾鉱毒事件の真実と、古河市兵衛の生涯にかかわる私(砂川)の二冊の著作と、その精神を共にしているともいえます。
この本に眼を通した上で、この歴史館を一度訪ねてみてください。きっと新しい発見があると思います。


足尾歴史館
電話:0288-93-0189

布川さんからの反論③

この本への反論は布川さんのものだけですが、続きを紹介します。

 

「236頁に、現在の常識になっている<足尾鉱毒事件>は、脚本・演出・主役田中正造によるお芝居にちがいない、と砂川さんは書いている。しかしこれは、あまりにも見当違いの<考え>である。」

「これを<創作劇>としたとき、現実の足尾の荒廃・被害民の数度に及ぶ大押出し、川俣事件、予防工事、予防工事後も続いた鉱毒流下に苦しんだ太田市毛里田地区他の鉱毒溜、根絶運動。調停成立等々を、砂川さんは何と説明するのだろうか。これだけは砂川さんにぜひとも撤回することを切に望むものである」

 

田中正造大学の関係者にも、討論を呼びかけたのですが、音沙汰がありません。このブログを活発にしたいと思いますので、皆さん、どうか遠慮なくコメントを入れてください。

布川了さんからの反論②

布川了さんからは反論の手紙が二度来ました。今回はそのうちから、二点紹介します。

1.私は『直訴は必要だったか』に「天皇直訴は足尾事件の解決にほとんど影響を与えなかった」と書きましたが(24頁)、彼は次のように反論しました。

「遊水池案、勅令→鉱毒調査委員会、そして河川改修工事→被害地鎮静化となるからです」

2.また私は、庭田源八の「鉱毒地鳥獣虫魚被害実記」につき「明治12~13年頃までは、(川魚が)百貫以上獲れました。・・・・・・只今にては鉱毒被害のため一切取れません」とあるが、「この時期に被害が発生するはずは無い」から、この記録は嘘だと書きました(34頁)。これに対して布川さんは次のように反論しました。

「源八が<百貫も獲れた>というのは、砂川の言う<この時期>に相当する。被害がひどくなったのは、この実記をまとめた明治30年頃である。実記を読み取り違えている」

このやりとりを、皆さんはどう思いますか。コメントをどうぞ。

田中正造の嘘について(1)

布川さんからの反論を一つ紹介します。

明治26年の秋に渡良瀬川流域の鉱毒被害地が豊作になったことに関して田中正造は、6年前の公害防止工事の効果ではなく、前年秋の風雨によって、

「渡良瀬本支流水源の諸山岳が広く崩壊したため、ほとんど50年分の山土が被害激甚地の毒土を覆ったからだ」

と言い張りました。
そこで私は「そんな大規模な山崩れは実際上あり得ない。もしあったら空前の大災害を引き起こす」と書いたのです。布川さんはこの見解に対して、

「あったのです。当時の記事、記録が多く山崩れ、空前の大惨事を証明しています」

と、9月28日の足尾町や日光の風水害、男体山の山崩れなどの例を挙げて来ました。
続いて私が、50年分という「新土なるものが被害地の田畑にちょこんと置かれることもあり得ず、その土が即農耕に適する可能性も無に近い。つまりはあまりにも幼稚な嘘で、誰も信用するはずの無いバカバカしい話である」と書きました。これに対して布川さんは、次のように反論しました。

「これは自然の猛威、大水害の恐ろしさをまったく知らない、渡良瀬川流域に住んできたものからすれば、幼稚な意見、バカバカしい限りの文です。」
「ちょこんと置かれるはずは無論ありません。除去した土の置場も無いほど耕地全面に20センチも新土が堆積したのが実情でした。この事実を<幼稚な嘘>とか、正造の珍説と決めつけることこそ、珍説といわれるべきでしょう」


このやりとりを皆さんはどのように考えますか。

布川了さんからの反論

群馬県館林市の布川了さんから、

「本を読んで色々課題があると考えさせられましたので、愚見を申し上げることにしました。ぜひ一度私共被害地においで下さい。話し合いができればよいと願います」

というお手紙をいただきました(昨年12月10日)。私はお断りしました。言いたいことは全て書いてしまったからです。
布川さんには、この事件についての多くの著書があります。どちらかが正しいかは、両方の本を読んだ人たちに判断をゆだねればいいと思うのです。
布川さんも言いたいことがあれば、どうかこのブログを反論の場に使ってください。それを読んで皆さんは、何が正しく何が正しくないかを自分の頭で考えてください。
いずれにせよ、教科書の間違いは放置すべきでないと、私は考えます。