足尾鉱毒事件自由討論会 -29ページ目

角川版『Our Times 20世紀』の偏向解説

この本の1900年のところに、「足尾鉱毒の被害深刻。田中正造、政府を追及」という解説文があり、この年の2月にあった被害農民の最後の反対行動について説明しています。

そして、次のように続いています。


「被害民は何度も政府や県に鉱毒対策を要求してきたが、当局は真剣に対処しようとはしなかった。」
「田中正造は代議士を辞任し、天皇への直訴をはかった。」
「政府は、新聞の批判には新聞紙条例違反や官吏侮辱などで弾圧する一方、世論に押されて鉱毒調査委員会を設置した。」


政府当局は、鉱毒調査委員会を設置して、公害の歴史上最も優れた防除対策を立て、これを実施させている(1897年)のに、「真剣に対処しなかった」とはどういうわけでしょう。なぜ公然たる事実をわざわざ隠すのでしょう。

防除工事は成功して、被害農地は「激甚地以外はきわめて豊作」と報じられるほど回復しました(1901年10月6日、朝日)。
そんな中で正造が直訴したのですから、これは異常行為ですし、直後の世論に押されて、「鉱毒調査委員会を設置した」との記述も曲解です。この委員会は、2回目のものだからです。

解説の続きはこうです。


「1907年、内務大臣原敬(前年までは古河鉱業副社長)は、谷中村の土地収用を公告し、抵抗する16戸の残留民の家屋を破壊した。村の復活に日本の再生をかけて谷中村に入った田中は、13年に死亡する。なおも抵抗を続けていた残留民も17年に谷中村を立ち退き、ここに谷中村は国家によって抹殺された。」


谷中村の農民が抵抗するのは当然です。しかし、洪水から(公害からではなく)自分の農地を守るために、上流の農民たちも、谷中の遊水池案には賛同しているのです。
それなのに、なぜ正しい選択をした政府をこうも非難するのでしょう。
明治以来の国土開発は、無数の村を抹殺してきました。救われるべきは、谷中村だけではないはずです。
田中正造と谷中村の悲劇だけを強調するのは、歴史の本がすることではありません。
この本の監修者は、ジャーナリストの筑紫哲也です。

事実を無視した 『角川新版・日本史事典』

足尾鉱毒事件の解説文の引用と私のコメントを並べます。


当初、古河は示談でことをおさめようとしたが、96年(明治29)の大洪水で被害が深刻化し、被害民たちは97年(明治30)から4度にわたって上京、直接政府に操業停止を訴えた。」


古河と被害民との仲裁交渉は、速やかに行われ、今のお金に換算して10億円が支払われました。
公害の歴史で、これほど見事な例はないのに、古河がずるく立ち回ったごとくに書かれています。


政府は古河に鉱毒予防工事を命じる一方、1900年(明治33)群馬県川俣で上京途中の被害農民を警察、憲兵が弾圧した川俣事件を機に運動の沈静化をはかったが、田中正造の天皇への直訴で世論は再び沸騰。」


工事を命じたと書きながら、この工事で農地が回復した重要な事実は全く伏せてあります。
一方、政府が農民を弾圧したと強調していますが、川俣事件の年の秋には農地が一部回復し、反対運動は自然に沈静化しました。
世論が沸騰したのは、現地ではなく、事情に疎い東京の学生や社会運動家たちで、農民は直訴を批判しています。


「政府は、鉱毒問題に終止符を打つため、渡良瀬川下流の谷中村をつぶし、遊水池をつくろうとしたが、谷中残留民の根強い抵抗が続いた。」


政府は、鉱毒問題が解決したので、洪水予防対策として、谷中遊水池案を立て、上流の沿岸農民もこれに賛同したのです。
谷中残留民が抵抗するのは当然ですが、上の記述は、事実ではなく、谷中村民への同情を強調した主観的解説になっています。

この辞典の編者は、京都大学名誉教授・朝尾直弘、千葉大学名誉教授・宇野俊一、奈良国立文化財研究所長・田中琢の3氏です。


平凡社版『世界大百科事典』のウソ②

この項の末尾には、こう書かれています。


「今、はげ山化したおよそ3000haの足尾山地では、巨額の国費を使って緑化工事が進められているが、一度失われた自然の回復はきわめて難しい。他方、最下流の旧谷中村を中心とする3300haの渡良瀬遊水池では、首都圏のための水がめ化工事が進行中である。この上流と下流に広がる広大な荒野こそ、日本の急速な近代化の裏面史であり、<明治政府失政の遺跡>ともいうべきものである。」


鉱毒事件の被害者たちは、「はげ山化」の阻止を求めたのではありません。彼らは、鉱毒に汚染された農地の回復を求めたのです。

それに応えて、明治政府は防止施設の建設を古河に命じ、古河がこれを履行し、その結果、5,6年後には農地が元に戻ったのですから、明治政府は失政どころか、輝かしい成功を収めた、ということが出来ます。
「はげ山化」と明治政府の施策とは、何の関係もありません。

旧谷中村の渡良瀬遊水池もまた、沿岸農地を洪水から救う目的で、大部分の被害農民の賛同を得て作られ、実際に洪水を防いだわけですから、どう解釈しても、「失政」とすることは不可能ですし、明らかに意図的なウソとしかいえません。


上記の解説をしているのは、国学院大学経済学部教授の菅井益郎です。

平凡社版『世界大百科事典』のウソ①

平凡社の『世界大百科事典』といえば、一番人気のある百科事典ですが、同書における「足尾鉱毒事件」の解説は、政府と古河鉱業を厳しく批判する内容で、歴史的事実を完全に逸脱しています。たとえば、ここには、


「政府は古河に鉱毒予防工事命令を下したが、工事はきわめて不完全なまま認可され、煙害の被害地である上流の松木村は1901年ついに全村移転し消滅した。」


と書いてあります。
しかし、当時の技術レベルでは亜硫酸ガスによる煙害を防止するのは、絶対に不可能でした。
だから、古河鉱業は総額4万円(今なら4億円)を払って、戸数40ほどの松木村に立ち退いてもらったのです。
この事典は、渡良瀬川沿岸の鉱毒汚染農地は数万ヘクタールと書いていますが、鉱毒被害のほとんどは水質汚染によるこの広大な農地です。
そして、予防工事の効果によって、5,6年後にはこの広大な被害農地が旧に復したのです。
つまり、事件はまさに見事な解決を見たわけです。
だからこそ、農民たちは田中正造に感謝し、尊敬したのでしょう。
ところが、解決したという事実は事典には全く書かれていません。
これは明らかに読者をだますための欺瞞であるといえます。百科事典として許されざることではありませんか。

菅井益郎の回答⑧

私は、「企業の社会的責任」を、古河市兵衛ほど立派に果たした加害企業の経営者は、いないと思います。
また、田中正造の政治力こそ、政府と古河を動かし、史上例のない本格的な公害防止工事を履行させ、被害農地を回復させたのだと思います。
だからこそ、農民たちは正造を尊敬してやまなかったのだと確信しています。
ところが、菅井益郎教授の解釈は、私とは全く反対なのです。
彼は、小学館編集部に宛てて次のように書いています。
このような人が、百科事典で「足尾鉱毒事件」の解説をしているのです。どう書いているか、ためしに読んでみてください。


「他人に損害を与え、迷惑をかけたなら、謝罪し、償う、そして二度と迷惑をかけません、と誓うのが市民社会のルールですし、再び過ちを犯すなら、鉱業条例に則って禁止するのが当然です。しかし古河は国益のためと開き直り、日清ー日露戦争を背景に軍備拡張に邁進する政府はこれを擁護し、その後も1974年に至るまで古河は鉱毒被害の原因を公式には認めなかった、これが事実なのです。」


「多くの農民の被害はそのまま放置されたが故に、今も下流の人たちは、一度は田中正造と袂を分かった人たちも含めて、正造を尊敬しているのであって、そのことを理解しないのであれば、どんな説明も無意味でしょう。」


「どうぞ砂川氏には古河が被害農民のために何をしてきたか、農民側に立って客観的に事実を見るように伝えてください。公害というものを加害者側に立ってみるのは一種の自家撞着に陥り、きわめて偏った見方になりやすく、被害を過小に評価する一方、対策を過大に評価してしまうことになり、そうした見方は今日経営学で議論されているコーポレントガバナンスの視点からも得るものはないことを考えてほしい、と思います。」


「公害の研究者が加害企業側に立てば、公害は更に悪化してしまうことを私たちは多くの公害の経験から知っています。本当に企業側が誠実に、かつ持続的に対応したならば、評価に値しますが、足尾銅山鉱毒事件における古河は、全くその評価に値しません。」

菅井益郎の回答⑦

「鉱毒被害は洪水とともに農地に及ぶ、いわば<鉱毒洪水の合成被害>であるために洪水の原因である渡良瀬川源流地帯の荒廃は、氏があっさり書いているように<技術的に亜硫酸ガス対策が出来なかった>では済まされません。古河は国有地のうっそうたる森林を枯らし続けて表土を奪い、それが川床を高めて洪水を長時間滞留させ、排水を悪くして農作物の生育障害の原因となったのです。」
「古河は今日に至るまで山骨露出した山を残した日本一の環境破壊会社といえます。足尾銅山はこの点では別子や日立などと大いに異なっていますが、これを<技術が未発達だから当然>という砂川氏には強い疑問を呈せざるを得ません。」


以上は、「公害予防工事は、脱硫技術のなかった煙害防止に関して不完全だっただけ」と、私が手紙に書いたことに対する菅井教授の回答部分です。
皆さんは、菅井氏が如何に答えにならない答えをしているか、論点をずらしているか、お分かりになるだろうと思います。


いったい、100年以上前に、古河市兵衛は、彼の事業がもたらす環境破壊というものを、いったいどれだけ予想できたというのでしょう。
森林が枯れるのを恐れた市兵衛は、燃料を薪からコークスに換えることにして、明治21年に、コークス製造工場を作りました。
蒸気機関ではマキを大量に消費するので、明治23年、日本初といえる水力発電所を稼動し、動力を電気に切り替えているのです。
洪水の原因も、菅井説が正しいと言えるかどうか疑問です。
たとえば、明治29年に限っても、大きな洪水は渡良瀬川以外に多発し、全国いたるところで惨状を見ています。
渡良瀬川の洪水は、足尾銅山が休業状態だった江戸時代末期にも、3回起こっているのです。
菅井教授は、ただわけもなく古河を非難しているだけだということが、お分かりになると思います。


菅井益郎の回答⑥

菅井益郎の手紙は、古河市兵衛に対して、まるでかたきのように非難の目を向けています。


「もしこの工事を古河が自ら率先して行い、被害地に損害賠償を支払っておれば、市兵衛の評価は高まっていたでしょうが、彼は結局何もしなかっただけでなく、養嗣子である潤吉の後見役であった原敬は、谷中村を破壊する土地収用法の認定を下したのです。予防工事も鉱業停止命令の圧力の下で行ったわけで、主体的に被害を軽減しようとして行ったものではないのですから、これはそれほど評価の対象にはなりえません。」


菅井教授の指摘は、すべて事実と逆になっています。
古河市兵衛は、公害の原因が明らかになったその年に、被害農民と示談交渉を開始し、およそ1万人の被害民に、当時のお金で総額10万円、今のお金に直すと10億円もの損害賠償をしています。

谷中村を遊水池にする計画は、渡良瀬川の上流の農民たちも賛同したのですから、正しい政策だったといえます。
原敬が土地収用法の認定をしたのは、その担当大臣だったからであり、このことを理由に市兵衛を批判するのは全くの筋違いです。
当時の公害は、古河の足尾のあと、住友の別子、藤田組の小坂、久原鉱業の日立の各銅山が続きますが、これらの加害企業は、当初は責任逃れに終始し、農民たちを怒らせました。
しかし、古河市兵衛は、損害賠償の後も政府の命令に何一つ不平を言わず、世間が絶対できないという困難な工事を、120万円をかけて(足尾銅山の年商は180万円)、完成させています。

だからこそ、工事の翌々年に博文館が行った「明治十二傑」の人気投票で、トップになったわけです。
いったいなぜ、菅井教授は「市兵衛の評価は高くない」などという妄言を吐けるのでしょう。

菅井益郎の回答⑤

国学院大学経済学部教授、日本経済史が専門の菅井氏は、古河による公害防止工事が不完全だったことを強調しながら、不思議なことに、この工事で農地が回復したとも言っています。

小学館編集部宛の手紙をまた引用します。


「明治35年の秋作頃から被害地では農業生産が回復してきますが、それは明治35年の9月の大洪水の洪水(?)によって鉱毒被害農地を新しい汚染されない土砂が覆ったからですが(渡良瀬川支流からの土砂の流れ込みによって鉱毒が希釈されたと推定)、もちろん以前のように足尾銅山からの鉱毒の大量流出があれば被害は拡大したはずですが、その点では、除外工事によって鉱毒の流出が減少し、下流の鉱毒被害も軽減したと考えられます。」


これでは、農地回復の原因は、支流からの土砂の流れ込みが主で、除外工事が従といっているようですが、明治35年以前の洪水でも当然土砂の流れ込みはあり、鉱毒は希釈されるはずですから、主原因の解釈は成立しません。
それに、明治35年秋の農地回復が、同年9月の大洪水のお陰というのは全くおかしな話です。洪水があれば不作になるはずですから。
彼の言っていることは、さっぱりわかりません。皆さんはどう思われますか。
私には、彼が何とか辻褄を合わせようとしながら、うまくいってないように見えます。



菅井益郎の回答④

小学館編集部宛の菅井益郎氏の手紙はまた、公害防止工事に関して、次のように説明しています。


「予防工事は当初、期限が120日とされていたのですが、いつの間にか命令のでる直前に180日に延ばされ、古河は救われたことと、工事後(を?)監督した東京鉱山監督署の署長南挺三は、後に足尾銅山の所長に天下っていることも、この工事が最初から足尾銅山の存続を目的に行われたことを示しています。逆にいえば、古河や政府にとってこの予防工事は、<完成>したものでなければならなかったのです。」


何も知らない人が聞けば、なるほどと納得してしまう内容ですが、建設工事のことがわかる人だったら、「何を馬鹿な」と思うに違いありません。
この工事の規模は、当時のお金で100万円以上、今のお金なら100億円以上、足尾銅山の年産額の半分という大きさでした。
とても120日で出来る規模ではなかったのです。
そして、伸ばされたという180日でも完工不可能という短期間だったので、工事責任者の近藤陸三郎は、「命令には絶対従う。」という古河市兵衛には内緒で政府と交渉し、2ヵ所の製錬所に設けるべき煙害防止施設を、製錬所を一つ廃止するとともに、1ヵ所にする許可をもらってやっと間に合わせています。

この工事のことを、公害問題の権威・宇井純は、「政府が企業に対して厳しい態度をとった唯一の例」と言い、田中正造を世界に紹介したイギリス人のストロングは、「多分世界で最初で、最も徹底した予防命令なのは確実だ。」と書いています。菅井教授の解釈は全く的外れではありませんか。
いったいなぜ、120日が180日になったのでしょう。
政府は当初、完工が不可能な工期にして、足尾銅山を操業停止に追い込むつもりだったものの、短かすぎて古河擁護派の猛反撃に会い、180日に落着いたのでしょう。
180日は、田中正造派と反田中正造派両方の顔を立てられる、ぎりぎりの数字だったはずです。
それは建設技術的側面とは無関係に、政治的な理由で決められた無責任な、工事の安全も、欠陥防止も無視した無謀な政治的決着だったといえます。今ならこんな短期工事を引き受ける業者など、絶対にないと私は断言します。
南挺三が天下ったことで、いったいなにが、どのように、古河の利益になったというのでしょうか。具体的に説明してもらいたいものです。


菅井益郎の回答③

小学館編集部宛の菅井益郎の手紙は、しきりに工事の欠陥を強調しています。


「予防工事が不完全だったことは、明治30年の予防工事後も追加的に予防工事命令が出されていることからもわかりますが、第二次鉱毒調査会の各調査報告書(全部で15本ほどある)をよく読むと、工事が不完全だったことが随所で指摘されています。たとえば、古在由直が明治35年11月24日付けで提出した、<渡良瀬川上流水質試験報告>には、<除害設備の不完全>という記述が3ヵ所も出てきます。」

いったい、完全無欠な工事などあり得るでしょうか。
どんな工事にしろ、チェックをすれば、必ず手直しの必要なところが出てきます。
建築でなく土木の工事ですから、なおのことそうです。
特にこの工事の場合は、わざわざ工期を短くしたので、当然、欠陥工事になる可能性が高くなるはずです。
私は、建築雑誌を編集していたので、この工事が、180日の工期では到底不可能と思われるのに完工したという事実に、驚きを禁じえないのです。
にもかかわらず、菅井氏が工事の出来具合をこれほど非難するのは、どうしてでしょう。
私には、建設工事のことなど何も知らないからこそ出来る、無責任発言としか思えません。
それに、評価の難しい欠陥を云々しても意味がありません。
意味があるのは、工事の結果、被害農地が回復したかどうかですが、明らかに回復したのです。
栃木県連合教育会が、「工事によって鉱毒問題は解決した」と明言しているではありませんか(『下野人物風土記』)。
菅井益郎教授がいくら不完全を云々しても、何の説得力もないわけです。