足尾鉱毒事件自由討論会 -28ページ目

真実の追究を忘れた「下野新聞」

私の著書『直訴は必要だったか』の異常性は、多くの出版社から、原稿を見ずに拒否されたことにあります。
それまで見ず知らずだった出版社にまで、次々と交渉を試みましたが、そのほとんどは私に会おうともせず、原稿を読んでみたいとも言わずに出版を断ってきました。


あるとき、事件の舞台だった栃木県なら関心を持つかも、と考えて「下野新聞社」と交渉すべく、上西朗夫社長に手紙でお願いしてみました。平成15年7月のことですが、広報担当の早乙女哲取締役から次の返事があって、門前払いされたのです。


「(前略)栃木県にとりまして、田中正造は地域住民のために生涯をかけて国家・巨大資本と闘った義人であり、近代日本の反公害運動の英雄となっております。したがって、私どもが彼を虚言の異常者とする立場を鮮明にするには、かなり厳しいものがあります。激しい性格により、あるいはアジテーター的な役割によって、相手を傷つけることがあったという話は、何度となく聞いております。その意味では聖人ではなかったのだ、とも思います。」
「砂川様の研究が間違っているとか申し上げるものではありません。ただ、作今の出版状況は先の見えないトンネルの中にあり、赤字覚悟でとは行かないのが現実です。残念ですが、お断りさせていただきたいと思います。」


断られたことに文句を言うつもりはありません。しかし、疑問なのはその理由です。
新聞社が標榜する「新聞倫理綱領」には、次の言葉があります。


「新聞は歴史の記録者であり、記者の任務は真実の追及である。報道は正確かつ公正でなければならず、記者個人の立場や信条に左右されてはならない。論評は世におもねらず、所信を貫くべきである。」


「下野新聞」は、真実の追究を忘れ、世間におもねて、読者の信頼を保っていけるのでしょうか。栃木県には、田中正造の出生の地と同時に、日本の近代化に大きな貢献をした足尾の町もあるのです。


岩波『日本史辞典』の主観的日本史

岩波書店は、『田中正造全集』を刊行しているので、この辞典にも反映していると思いきや、全く違いました。
この辞典の解説者は、自分に都合の悪い事実は一切書かず、主観的に正しいと思ったことだけを書いており、客観性は全く無視しています。
内容は次のとうりです。


田中正造を指導者とする被害農民は、政府に鉱業の停止を求めて東京へ大挙押出し(請願運動)を図るなど、強力な反対運動を展開した。」
「政府による鉱毒問題の治水問題への転換、谷中村の強制破壊によって、歴史的には抹殺された。」
「だが、被害はその後も続き、今なお足尾には禿山、下流には広大な遊水池を残している。」


『田中正造全集・別巻』の「年表」は、次の事実を明確に記載しています。
加害企業の古河が、被害農民と示談をくりかえしたうえ、損害賠償金を支払い、政府が専門の委員会を設けて対策を立て、古河に鉱毒防除工事を命じ、古河がこれを忠実に履行したこと、その結果、「明治36年10月には鉱毒被害地の稲が豊作になった。」ことなどです。


しかし、こうした重要事項を、この辞典はすっぽりと抜かしてあるわけです。

解説者は、田中正造と谷中村の抵抗農民だけが正しく、それ以外の被害農民の声さえ否定する極端に偏向した立場をとっていることがわかります。


しかも、たとえば、2番目の文章には主語がなく、何が誰によって抹殺されたのか不明ですし、3番目の文章におけるその後の被害と、禿山や遊水池との関係も理解不能です。


本辞典の編集委員には、由井正臣が名を連ねていますが、この項目は彼が執筆したのだと思われます。田中正造全集は彼が編集し、岩波新書の『田中正造』は彼の手で書かれているからです。しかし、上の解説は、二つの著書が生かされずに、特定のイデオロギーを読者に押し付ける書き方になっています。こんな主観的な日本史でいいのでしょうか。



東京創元社『新編・日本史辞典』のウソ

この辞典は、京都大学出身の学者たちが編集していますが、内容のデタラメさに関しては、ほかの事典と変わりありません。
解説文を引用しながら、これを批判してみましょう。


「この年(明治30年)、政府は鉱業主に鉱毒除外工事を命じたがその効なく、同年より洪水ごとに被害民数千人が上京し、1900年(明治33年)には、群馬県川俣で阻止しようとする警官に弾圧されて、負傷者や検挙者を出した(川俣事件)。」


被害民が2回も上京して政府に請願したため(明治30年)、工事の命令が出されたのに、その逆であるかのようにウソをついています。
工事の効果はすぐに出ないはずです。にもかかわらず、被害民の行動を正当と見、政府の対策を非難しています。
デモ隊を規制するのは間違いだと言えるのでしょうか。そうでないこともあるはずです。


「この事件(田中正造の直訴)は世間を衝動し、婦人矯正会・社会主義者・弁護士・学生らも救済を叫び、02年(明治35年)政府は予防工事を命じ、被害は一応収まった。」

直訴(明治34年12月)以前に工事の効果は出ており、新聞も「激甚被害地以外の農地はきわめて豊作」と報じていました(同年10月6日付け・朝日)。
02年の工事は改善だけであって、これで被害が収まったのではありません。歴史的事実を何も調べていないことがわかります。
つまり、直訴もその直後の世論の高まりも、被害の回復に大きな役割を果たしてはいないのです。


「政府は谷中村を廃村として遊水池を作り、反対農家19戸を07年(明治40年)強制的に破壊した。」

谷中村の遊水池化は、鉱毒対策でなく洪水対策です。上流の被害民もこぞって賛成しており、栃木県も国も議会で決議している以上、この説明もまた
客観性を欠き、谷中村の残留農民だけを正当化している点、説明が一方的です。

この解説を書いた歴史学者は、神戸女子大学名誉教授の山本四郎です。

支離滅裂きわまる朝倉書店の「日本史事典」

これまで百科事典や歴史事典の矛盾・虚偽・欺瞞などを指摘してきましたが、この事典はそのうちの最悪例といえると思います。
足尾鉱毒事件については、次の順序で説明されています。


①「被害農民は再三上京して政府と交渉しようとして警官と衝突した。」
②「社会主義者・弁護士・キリスト者・学生が被害農民の救済・支援の運動を展開した。」
③「田中正造は、明治34年の12月に、問題を解決するために、天皇に直訴するという非常手段に出た。」
④「この動きの中で、政府は明治30年に鉱主に対して鉱毒除去の工事を命じたが、効果がなかった。」
⑤「明治35年には、(政府は)改めて鉱毒予防工事の実施を命じた。」
⑥「しかし、鉱毒問題は基本的解決をみることはできなかった。」


読者は、当然、このとうりの順序で事件は経過したと理解するはずです。しかし、実際の順序は、①,④,③,②,⑤,⑥なのです。


①の交渉は4回ありますが、うち2回の交渉のあとに政府は④の工事を命じました。その効果は直訴以前に現れています(明治34年10月6日・朝日)。明治30年のこの歴史的な公害防止工事によって、農地が回復しはじめていたのです。
農民と警官との衝突は、明治33年2月の4回目の反対行動のときですが、鉱毒除去工事を実施した以上、農民の要求を抑えるのは政府として当然の行為ではないでしょうか。


④の「この動きの中で」は、「支援運動や直訴などがあったため」としか理解できませんが、この文章では、時間を完全に逆転して読者をだまそうとしています。まことに卑劣なやり方で、政府や古河を悪者にする意図が露骨に表れています。


②と③も時間を逆転させていますが、③の直訴があったから②の支援運動があったのに、これを反対だと思わせようとしたわけです。
②の支援運動は、東京の知識人の間で一時的に盛り上がっただけで、事件の解決には何の影響も与えていません。


⑤の明治35年の工事は、明治30年の工事の改善命令だけで、これも重要な事実ではありません。


⑥の文章は完全なウソです。被害農民も農地が回復したと証言していますし、『田中正造全集・別巻』の「年表」にも、「明治36年10月、鉱毒被害地の稲豊作」と記されています。この事実は、鉱毒問題が解決したことを何よりも証明しているではありませんか。


 



「日本史広辞典」(山川)の左翼的偏向

山川出版社といえば、日本歴史の老舗、権威のある歴史専門出版社です。
しかし、驚いたことに、「足尾鉱毒事件」に関する限り、デタラメもいいところ、お粗末としか言いようがありません。
田中正造と一部被害農民の言いたい放題の主張だけで、客観性を欠くだけでなく、内容は明らかに虚偽です。
全く資料を調べていないことがわかりますが、ここには、次のように書かれています。


被害農民は、田中正造とともに明治政府に対して、足尾銅山の操業停止を訴え、東京へ押し出し(大挙請願運動)を行うなど、鉱毒反対運動を展開、大きな社会問題となった。」
「政府は刑事弾圧を加える一方(川俣事件)、鉱毒問題を治水問題にすりかえて運動を分断し、遊水池設置のため谷中村民の家屋を強制破壊した。」


刑事弾圧を加えた、とありますが、それ以前に、農民や田中正造の圧力に押された政府と加害企業が、公害防止工事を行い、すでに農地は回復の兆しを見せていました。この事実をなぜ隠すのでしょう。


鉱毒問題を治水問題にすりかえたとありますが、谷中村の遊水池化は、栃木県会も国会も上流の農民も賛成した事業で、しかも洪水対策ですから、「すりかえ」には当たりません。


とにかく、この辞典の説明は、左翼の学生の一方的な政府への攻撃に似ていて、歴史に必要な客観性などどこにも見られません。



政府の公害対策を無視する『日本全史』(講談社)

「ジャパン・クロニック」という副題がついたこの歴史事典は、主な事項を暦年ごとにまとめて説明しており、「足尾鉱毒事件」は、1897(明治30)年のところ(被害農民の請願運動)と、1901(明治34)年のところ(田中正造の天皇直訴)に解説されています。概要はこうです。


「農民たちは、数回にわたって、集団で上京し、政府に請願をしたが、官憲に阻止された。」
「田中正造は、農民と政府の間に立って斡旋に努めたが、政府の対応は誠意を欠き、請願運動を弾圧した。」
「田中正造は、鉱毒被害の惨状を見かねて天皇に直訴した。」


つまり、政府は何らの公害対策もせず、農民を弾圧しただけだというのです。
しかし、実際は全くの逆でした。政府は加害企業に5回にわたり公害防止工事を命令し、3回目の、「政府が企業に対してとった唯一の厳しい公害防止対策」(宇井純)が功を奏して、鉱毒事件は解決しているからです。


すでに直訴の前に、「激甚被害地以外はきわめて豊作」と新聞は書いていますし(1901年10月6日、朝日)、『田中正造全集・別巻』の「年表」には、「1903年10月、鉱毒被害地の稲豊作」、とあります。


明らかに重要な事実を隠蔽しており、客観性を欠いた不公正な記述です。これではウソの歴史ではありませんか。


河出書房『日本歴史大辞典』の偏向ぶり

この事典も、A5判4段組640ページが全10巻もあり、内容はきわめて詳細です。
しかし、「足尾鉱毒事件」の説明は、きわめて粗雑で、偏向しており、明らかに虚偽の説明をしています。
前回の事典と同一人、塩田庄兵衛の執筆になる文章の問題部分を引用しながら、間違いの理由を説明しましょう。


「古河市兵衛は、被害農民を買収して反対運動を阻止しようと図った。」
田中正造は、こう言っていますが、その証拠はありません。買収の必要もないはずです。


「田中正造は、繰り返しこの問題を議会に訴えて、古河財閥と政府との結託を攻撃し、ついに天皇直訴にまで及んだ。」
「政府が企業に対してとった唯一の厳しい例」、と公害学者・宇井純が言う鉱毒防除工事を、政府は古河に命じています。それには180日以内に完工しなければ鉱業権を取り消す、との条件までついていたのですから、「結託」していると言えるはずはありません。


「被害農民を支援して、社会主義者、自由主義者ブルジョア、農本主義者、キリスト教徒、婦人、学生らが、一致して抗議・救済運動を展開した。」
彼らはほぼ東京に住む知識人で、時期も、被害農地が回復の兆しを見せはじめた直訴の直後でした。しかもわずか数ヶ月で運動は終息しました。ですから、あまり重要な事実とはいえません。


「1902(明治35)年、内閣に鉱毒調査委員会が設けられ、古河鉱業に対して鉱毒予防工事が命ぜられた。」
上の委員会は、上記の抗議・救済運動の結果設置されたのですが、2回目のもので、工事も前回の改善工事に過ぎません。重要なのは1回目の委員会で、この時(明治30年)の命令による大規模予防工事によって、農地が回復し、日本最初の公害事件は解決を見たのです。


いちばん重要な事実を、なぜ隠したのでしょう。田中正造の直訴まで政府が何もしなかったことにしようとしたからです。
明らかに偏向した歴史観によってついてしまったウソですが、中学・高校の歴史教科書は、ほとんどがこのウソの孫引きです。
こんな歴史のウソを、子供たちはどうして教わらなければならないのでしょう。

吉川弘文館の大きなミス

テーマを元に戻し、今回は、角川書店に次いで、歴史書の老舗・吉川弘文館にメスを入れます。


同社の『国史大辞典』は、数多くの日本史の事典の中で圧巻といってよく、1巻がB5判4段組で1000ページもあるのに、14巻でやっと一揃いになる、とてつもないボリュームの大歴史事典です。


昭和54年発行の第1巻にある「足尾銅山鉱毒事件」の解説には、そのためか、ほかの事典には見られないとんでもないフィクションが、堂々と載っています。それは、
「(明治)13年、栃木県令藤川為親が、<渡良瀬川の魚族は衛生に害あるにより一切捕獲することを禁ず>という布告を出した。」
という部分です。


田中正造によるこの言説が真っ赤な嘘だということは、すでに周知の事実だったので、なぜこう書かれてしまったのか不思議でなりません。
公害発生の新聞記事は、明治17年10月が最初ですし、足尾銅山の本格操業も明治14年からなので、研究者の一人が、「これは田中正造の作った虚構だ」と発表して(昭和50年)以来、これが定説になっていたからです。


権威ある事典がこんな間違いをしてしまったのは、田中正造の言説を頭から信用してしまい、他の資料を見ようとしなかったからです。
ほかにもまだウソがあります。


たとえば、事典には、「(鉱毒問題の解決策が)効果のないのに絶望して、直訴を試みるという非常手段をとった」、と書かれています。
しかし、別のところには、「政府は、明治30年、鉱業主に対し鉱毒除害工事を命じたが、その効果はただちには見られなかった。」と記すと同時に、「しかし、渡良瀬川の鉱毒は一応表面から消えるに至った。」との説明があり、文意は明らかに矛盾しています。


直訴の2ヶ月前の『朝日新聞』は、「鉱毒被害地も、激甚地を除くほかは極めて豊作」と報じているのですから、「絶望」の振りをした田中正造にだまされたとしか言いようがありません。『田中正造全集』の年表には、「(直訴の2年後の)明治36年10月、鉱毒被害地の稲豊作」と書いてあります。


この事典の執筆者は、都立大学と立命館大学の名誉教授で、社会運動史の権威、マスコミ界でも大活躍した塩田庄兵衛です。

足尾歴史館その後②

今回は、足尾歴史館・館長の長井一雄さんから最近来たお便りを紹介します。


幸い、初期の段階では想像もしなかった5000名近くの方が入館され、当事者の私たちが驚いているくらいです。特に教育者、専門分野の方々、学校関係者、地方自治体関係者等、歴史館を目的に来られる方が多く、本当に中身が濃くなって来たと毎日毎日充実感でいっぱいです。


入館される時は公害の原点の町だとか、はげ山ばかりと思っていたとか、どこかで、かすかに知った知識しかもっていない方々、また、知識はあったけれど、これだけ、江戸、明治、昭和と活躍し、日本の近代化に大きく貢献したとは思わなかった。又、公害防止にこれほどの資金と人材と技術を投入したとはぜんぜん知らなかった。「本当にすごい」「びっくり」「発想をまったく考え直さなくては」と多くの方が言って感動され、帰っていただくこと、とてもうれしいし、ありがたいし、頑張っている事、とても大事だと思う毎日です。


12月から3月の4ヶ月は水が凍ってしまい使えない為休館しますが、フィールドワーク(HPで募集)とか勉強会などは続けていきます。又18年4月からの新しい展示物もこれから大変な作業をして準備して行こうと思っています。3年かけて全国から来られる人たちに私たちの意志、意見を伝え、今迄とまったく違った角度で見てもらえ、理解していただけるよう努力していこうと思っています


前にも書きましたが、この郷土資料館は、足尾町が運営しているのではなく、長井さんたち住民有志が設立し、説明やガイドもボランティアで行っています。ですから、必要資金は、自分たちで調達しなければなりません。「足尾歴史館友の会」という支援のための組織がありますので、どうか会員になって資金的な援助をしていただきたいと思います。
個人会員は一口2,000円ですが、送金方法は、前回紹介した同館のホームページにリンクすればわかります。

足尾歴史館その後①  

半年前の5月に、足尾歴史館の開館のことをお知らせしましたが、一休みして今回は、住民たちが自主運営するこの歴史館のその後を、経過報告いたします。


会館4ヶ月目の8月下旬に、入館者数は2500人を突破。11月3日には4000人に達しました。
見学者をボランティアでガイドする館員の便りによれば、明治30年の公害防止工事の大きなパネル写真は、大変インパクトがあり、ほとんどの人が驚くということです。


この工事が、大変な人手と大金を投じたことを始めて知らされるのですから、当然だと思います。
副館長の池野さんからのメールによれば、たいがいの人が、「今まで考えていたのと全く違った。」、「見方が変わった。」、「感動した。」、「意識が変わった。」といった感想を言うそうです。

明治の写真師・小野崎一徳の写真は実に見事で、当時の足尾銅山の真実を100年後のわれわれに、直説伝えてくれるからでしょう。


中学・高校の歴史の先生の集まりである、「全国歴史研究会」のメンバーも来館したそうですから、教科書の記述もいずれ訂正の動きが始まると思います。


8月下旬には、ホームページ伝えたい、足尾銅山の光と影。足尾歴史館 が開設されました。その中にある掲示板には、「私の足尾観は180度近く変えさせられました。」と言うコメントも入っています。
とにかく、一度アクセスしてみてください。


前回の記事に「無題」というタイトルのコメントが入りました。
私としては、ありがたく拝聴いたしますが、「そうですか」という返答しか出来ませんので、ご了解ください。