東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・55 | 足尾鉱毒事件自由討論会

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・55

菅井は、公害の歴史ではほとんど問題にされないこの公害について詳しく書いていますが、おそらくほとんどの読者は、これを読んで退屈するだろうと思います。
彼の説明を出来るだけ手短かにまとめて、その概要を紹介します。


1.1962年12月、政府は、恩田正一を(公害反対)同盟会の会長を辞任することを条件に、水質審議会の第6部会(渡良瀬川部会)の専門委員に任命した。


2.この部会の席上、恩田は、加害企業の社長が審議会の委員になっていることに憤慨して、「泥棒を審判官にするのか」と抗議した。そのため、加害企業の社長は委員を辞任した。


3.1964年10月、同盟会に所属する600名の農民たちは上京して、「鉱毒汚濁の原因究明」を関係官庁に陳情した。


4.しかし、1967年2月、経済企画庁の役人らは、渡良瀬川の銅の含有量を0.06ppmとする水質基準案を作成し、政府は、同盟会の幹部に対し、0.06ppm以下での水質規制の早期制定を陳情させることに成功した。


5.1968年3月6日、水質審議会の第6部会は、恩田委員の強硬な反対論を押し切って、群馬県大間々町高津戸での規準を0.06ppm、足尾銅山の排水基準を足尾町のオットセイ岩地点で1.5ppmと決定した。


6.これらは、企業にとって至れり尽くせりの措置であった。


政府の公害対策が企業寄りだといって批判しているわけですが、政府が公害の被害者である少数の農民よりも、大多数の国民が支持する大企業の側につくのは当然のことです。
数の多いほうが有利であるのが世間の現実だということを、よく知るべきだと思うのです。


被害者でなければ、普通は農民もまた有名な会社に自分の子供を就職させたいと思っており、企業側を支持する人間だということができます。