東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・53 | 足尾鉱毒事件自由討論会

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・53

前回は、1958年5月30日に足尾銅山の廃棄鉱石の堆積場の決壊によって、渡良瀬川沿岸に新たな公害が発生したことに触れました。


この本の著者菅井益郎は、その被害地の群馬県山田郡毛里田村(現太田市毛里田)の農業協同組合の組合長、恩田正一の行動を次のように書いています。


「渡良瀬川から取り水している群馬県側の桐生、太田、館林の三市と山田、新田、邑楽の三郡の農民や行政の代表約150人を引き連れて足尾銅山に行き、抗議行動を行った。決壊11日後の6月10日のことであった」


その後の経過を、菅井はさらにこう記述します。


「8月2日には、群馬県東毛三市三郡渡良瀬川鉱毒根絶期成同盟が結成され、恩田は会長に選ばれた」


「農民たちの抗議に対して、古河鉱業側は、鉱山局の指導に従った設備であるから決壊が起こってもこちらには責任はないと開き直り、農民に対して一片の誠意すら見せようとはしなかった」

このように書いていますが、農民側の立場から一方的に古河鉱業を批判しています。これでは事実かどうかは分かりません。それに、なぜ、足尾銅山のどちらかといえば小さな公害問題を、強調しなければならないのでしょう。


そもそも、足尾の公害が問題になった明治時代には、どの銅山にも公害は発生していたのです。
しかし、学者やマスコミは、足尾のことだけを取り上げ、他の鉱山の公害のことはは全く書いていません。


私は、明治の新聞の『萬朝報』(明治42年8月28日)で、次の内容の記事を見つけました。


「足尾、別子の鉱毒は天下の問題になった。それは雄弁な論者があったためである。小坂のことはなお知る人が少ない。しかも、実は別子の毒量は小坂の半分強で、足尾はさらに別子よりも少ないのである」


この記事に驚いたので、私は、足尾銅山のオーナーだった古河市兵衛の伝記に、住友の別子銅山(愛媛県)と藤田組の小坂銅山(秋田県)と、藤田組にいた久原房之助が起こした日立銅山(茨城県)について、それぞれの公害を調べてその実態を書きました。


その結果、公害に対する足尾銅山の対応が、他の鉱山より誠実で、いかに立派だったかということを知ったのです。
それなのに、学者やマスコミは、足尾の公害だけを一般の人に知らせ、悪口を書いているわけです。何とも不公正な話ではありませんか。