東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・52 | 足尾鉱毒事件自由討論会

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・52

菅井益郎はまた、日本経済の発展にとって重要な技術革新さえ、公害の原因になったと勝手な理屈をつけて、政府や大企業を批判します。


公害の原因は、公害防止対策の不備にあるので、技術の進歩にあるのではありません。技術の進歩を否定すれば、日本の国家は経済力を失い、国民の幸福は得られません。ですから、明治以降、日本国民は常に技術の進歩を求めてきたはずです。


足尾銅山を経営する古河鉱業は、1956年2月に、自溶炉と称する画期的な溶鉱炉を完成させました。これは、銅の鉱石に含まれる硫黄分が発生する熱で、鉱石を自ら製錬する溶鉱炉のことです。
この事実を紹介したうえで、菅井益郎は次のように書くのです。


「しかし、製錬施設のこの一新によって、それまで潜在化していた鉱毒問題が、突如顕在化したのであった」


これは、明らかに事実と違います。なぜなら、彼自身が「鉱毒問題が、突如顕在化した」経緯を、以下のように説明しているからです。


「自溶炉が完成して2年後の1958年5月30日、足尾銅山の14の堆積場のうちの一つ、源五郎沢堆積場が決壊し、約2000立方メートルの鉱泥が、渡良瀬川に流出し、6000ヘクタールの水田に直接被害を与えた。この年は降雨も少なく、その日も雨など降っていなかったので、これは全面的に古河鉱業側の管理のずさんによるものであった」


「被害は、待矢場両用水の取入れ口がある毛里田村(現太田市毛里田)を最激甚地として、広大な地域におよんだ」


つまり彼は、新たに起こった鉱毒問題の原因を、自分で書いたばかりの「自溶炉と称する画期的な溶鉱炉」のことを無視して、「全面的に古河鉱業側の管理のずさんによるもの」と説明しているわけです。


何とまあわけの分からない説明のしかたなのでしょう。唖然とするほかありません。