東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・49 | 足尾鉱毒事件自由討論会

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・49

渡良瀬川は、公害問題とは無関係に昔から洪水の多い川です。


田中正造たちも、「3年に1度くらいの割合で洪水があったために、天然の肥料に恵まれる結果になった」と何度もこの事実を強調しています。


それなのに、菅井は昭和の10年代になってからの洪水をたくさん並べて、農民たちがたびたび河川の改修工事を要望したという事実を並べるのです。
このことと明治の足尾鉱毒事件とは何の関係ないはずではありませんか。


引用しましょう。農民たちが洪水対策を求めたにすぎないことが、よくわかります。


「日中戦争開始後も下流の農民の運動は続き、1938年9月の渡良瀬川大洪水、39年6月の増水によって激甚な鉱毒被害が発生したため、群馬県に桐生市、山田郡、待矢場両堰普通水利組合の農民たちは、渡良瀬川改修群馬期成同盟会を結成して、栃木県足利郡の農民などとともに、内務省に対して水源涵養と渡良瀬川の再度の改修要求を提出した」


「農民たちの陳情活動は翌1940年11月まで22回も行われ、ようやく同年12月に、15年継続で800万円の改修予算が成立したのであった。その後も水源地帯の砂防工事を求める陳情や、渡良瀬川改修促進の請願が、くり返し農民たちから提出された」