東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・46 | 足尾鉱毒事件自由討論会

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・46

著者菅井による住民側の公害防止要求の経過説明は、さらに次のように続きます。
しかし、公害事件が新たに発生したわけではありません。
しかもどこの銅山でも起こっていた煙害問題で、技術的には当時解決策がなく、そのうえ、渡良瀬川沿岸の住民は深刻な害を受けてはいないので、ここで取り上げる意味はないはずです。
引用しましょう。


「1924年夏の大旱魃による被害はきわめて大きく、農民たちの水源涵養にたいする要求をいっそうたかめた」


「1925年2月、群馬県の新田・山田・邑楽の東毛3郡の農民数千人は、足尾銅山煙害防止問題に農民大会を開き、貴衆両議院、内務、農商務大臣に対する請願書を可決した」


「すみやかに鉱業法を改正し、同法中に鉱業による損害賠償に関する規定を設けてほしい、と請願したのだった」
「鉱業法の改正については、住友の別子銅山四阪島製錬所の煙害に反対する農民たちが、すでに1907年頃から強く要求していたものであるが、結局1934(昭和14)年になってようやく実現したのであった」


菅井のような学者にとって、素人である読者を騙すのは簡単です。事実を隠せばいいだけですから。
彼は「住友の別子銅山の煙害に対して、すでに1907年頃から農民たちが強く要求していた」と説明していますが、「すでに1893年9月に」農民数百人が住友の新居浜支店に押しかけて、別子銅山の公害騒動は始まっているのです。


住友の公害問題が始めて起こったごとく彼が説明する「四阪島製錬所の煙害」は、実は新居浜製錬所の公害を無くすべく、瀬戸内海の無人島である四阪島に移設した製錬所の新たな公害で、被害は以前よりもっと広がってしまったのです。
角川版の『地名事典』の「新居浜」の項には、次のように書いてあります。


「住友は製錬所を四阪島に移転したが、煙害は沿岸の東予(愛媛県東部)4郡一帯に拡大し、被害農民は激化し、政治経済社会上の大問題となった。闘争は昭和13(1938)年亜硫酸ガス除去装置が製錬所内に完成するまで続いた」


住友の別子銅山の公害は、加害者責任を長い間認めなかったし、煙害なので技術的解決策がなく、足尾銅山の公害よりも実は深刻だったのです。

にもかかわらず、菅井等学者たちは、住友よりも古河が悪いといった説明をするのです。あきらかに偏見ですし、読者を騙しています。