東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・45
著者菅井は、この本で足尾銅山の公害のその後を様々に説明していきます。
それによれば、大正6(1917)年2月、待矢場両堰水利組合が群馬県知事に対して、ある意見書を提出したということです。その概要は、次のようなものでした。
「渡良瀬川からの洪水があるときには、いまだに少なくない土砂が浸入するが、自分たちが足尾の水源を調査したところ、予防工事の不備と考えられる点があるので、適応なる措置をお願いしたい」
具体的には、この農民たちはその実態を以下のように説明しています。
「沈澱池も濾過池も、いったん豪雨があれば若干の泥砂・紛鉱が溢出する」
「砂防のための網状工事は、豪雨があれば山岳崩落の砂礫と共に流出して、山肌を露出させる。したがって効果はない」
「脱硫装置は効果がなく、山の緑は失われてしまい、数年後には日光の山もはげ山と化し、水源は枯渇すると思われる」
大きな問題が起こったわけではなく、足尾銅山の公害が再現したわけでないことが、これで分かります。
この程度のことをなぜ取り上げる必要があるのでしょう。
最初の公害防止工事から20年ほどたっているのですから、そろそろ欠陥が露呈されてもいい時期です。当たり前の現象が起こったに過ぎません。なぜこのように責めなければならないのでしょう。
脱硫装置の効果がないのは当然のことで、政府も古河もすでに承知していたことです。
煙害防止の解決が技術的に不可能だったので、古河鉱業は、煙害に苦しんでいた松木村の住民に立退き料を支払って移転してもらい、円満にこの問題を解決しています(明治34年10月)。
前記の意見書に、煙害のために「数年後には日光の山もはげ山と化し、水源は枯渇すると思われる」とありますが、そんなことは実際には起こっていません。
単なる脅しに過ぎないことまで紹介して、菅井は読者を騙しているわけです。