東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・44 | 足尾鉱毒事件自由討論会

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・44

明治36年の秋の大豊作が物語っているように、日本で最初の公害事件は、農業が従来通りに回復して解決しました。


勿論、明治33年2月の川俣事件以来、農民の公害反対運動は起きませんでした。
ところが、『通史足尾鉱毒事件』の著者たちは、事件は現在まで続いているといい続けるのです。明らかな欺瞞です。


彼らはこの本のタイトルに、「1877-1984」という数字を付しました。なぜでしょう。この数字は、古河市兵衛が足尾銅山を買った年と著者たちがこの本を出版した年を示しています。彼らは、それによって、鉱毒事件が銅山を買ったときに始まり、すでに閉山してなお10年以上たっても、なお続いていると宣言したわけです。


足尾銅山の最初の公害報道は1884年10月、大規模な公害防止対策が実施されて(1897年)、被害農地の稲が豊作になったのは1903年の秋です。


このような事実経過を一切無視しているわけですから、客観性はゼロですし、何ともむちゃくちゃな理屈です。


古河市兵衛も田中正造も死んで、十数年して経営者が変わってから、足尾銅山が原因で新たな公害が発生したことは事実です。とはいえ、かつての鉱毒事件とは全く違った公害ですし、これを一緒にするには無理があります。歴史の教科書もこんな説明はしていません。


ところが、この本の後半部分を執筆した菅井吉郎は、その無理をあえてして、何が何でも古河鉱業を悪者にしようとするのです。