東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・43 | 足尾鉱毒事件自由討論会

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・43

前回に書いたように、著者菅井は、政府が「弾圧と巧みな宣伝や説得活動」で農民の運動を分断したため、上流の農民は、谷中村の遊水池化を含む渡良瀬川改修工事の促進運動に走った、と説明しました。


しかし、『田中正造全集・18巻』の「解題」は、これを完全に否定する事実を紹介しています。引用しましょう。


「明治42年9月10日の栃木県臨時県会で、木塚貞治県議は、改修の早期可決を望んで<この機を逸したならば・・・われわれはいつの時を待ってこの困難を防ぐことが出来ましょうか。・・・今日まで貴・衆両院、内務省、内閣、1年として請願を出さない年はないのである。・・・われわれ沿岸の人民が困難をしておりますのも、20年来のことで、・・・多数の(洪水の)被害民を助けるためには、一小部分の犠牲は実に涙をのんで、・・・>などと述べた。これは、積年にわたる渡良瀬川沿岸(下都賀郡以南を除く)住民の陳情、請願運動がいかに活発だったかを物語るものである」


谷中村の残留農民たちも、逆の立場から自分の生活を守るために必死の抵抗運動を展開しました。
彼らは、大正6年2月、栃木県に対し、「現在の耕作地と不要の堤を貸し付けること、就業の費用と物件取り扱いの費用として1戸当たり60円から120円を支給すること」などを認めさせたうえで、県が用意した土地に移住しました。


農民が抵抗すれば、国家も県も相当譲歩しなければならないということがわかります。
菅井は、その後の遊水池の完成時に関して、少し前に自分が書いたことなどすっかり忘れて、農民同士は連帯意識など全く持っていないという現実を、次のように書くのです。自分の主張が何も矛盾していないと思っているのですから、全く唖然とします。


「大正7年8月、渡良瀬川改修工事中の最難解部分である高台を開削する新川築造工事が完成し、<上流被害民の万歳の声のうちに疎水式が行われた>(島田宗三著『田中正造翁余禄・下』)のであった」