東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・42 | 足尾鉱毒事件自由討論会

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・42

谷中村の遊水池化の過程をたどると、70戸400人にまで減っていた移転反対派農民に対し、明治40年1月に政府が土地収用認定公告を出し、6月には移転をなおも拒否していた18戸を強制的に破壊しました。しかし、家を破壊されても、残留民は仮小屋を建てて住みました。


この気の毒な農民の抵抗運動に対して、正造と東京の弁護士、キリスト教社会主義者、政治家、その他の知識人などは支援したものの、渡良瀬川上流の沿岸民は何の援助もしませんでした。これが歴史的事実です。


この客観的事実を説明するのに、この本の著者である菅井は、次のような解釈を下すのです。


「政府は、日露戦争の過程で国民的統合を実現し、農村の指導者たちにも広く国家意識を植え付けることに成功したことから、それに乗じて、鉱毒と洪水の被害によって疲弊した農民たちを分断し、彼らを体制内に取り込む方針を立てたのである」


「そして、弾圧と巧みな宣伝や説得活動により、農民側の連帯を急速に破壊していった。こうして、旧谷中村の上流の農民たちは、利根川と渡良瀬川の高水工事が完成することによって、洪水のもたらす鉱毒被害が減少するのであれば、下流の一部の農民が犠牲になるのも止むをえない措置である、と考えるようになっていった」


「かつて田中正造の支援を受けて当選した群馬県選出の武藤金吉議員や、鉱毒反対運動の活動家の幹部であった岩崎佐十・野口春蔵・大出喜平などといった人々が、今度は渡良瀬川改修促進運動の先頭に立ったのである。モハヤ、完全に相容れないものになってしまっていた」


すべてとんでもない曲解といえます。


政府が、「国民的統合を実現し」「農村の指導者に国家意識を植え付けることに成功した」はずもなく、「弾圧と巧みな宣伝や説得活動」をした証拠もありません。


「農民側の連帯」などあるはずはなく、したがって、それを政府が「急速に破壊していく」ことなどあり得ません。


「上流と下流の被害農民たちの利害」が違うのは当然のことです。「鉱毒反対運動」と「遊水池化計画」とは、全く異なる問題だからです。