東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・40 | 足尾鉱毒事件自由討論会

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・40

菅井は、明治35年の秋と36年の夏は「ある程度まで農業生産の回復を見るところとなり」、「農民の間には鉱業停止要求よりも農業生産を安定化するための治水を求める声が高まった」と説明しています。


これもおかしな話で、全く嘘の説明です。農民は洪水が来ては困りますから、常に「治水を求め」ています。それは、農業生産の回復とか、鉱業停止要求とかには関係ないはずです。


明治政府は、鉱毒予防工事が成功して田畑が回復した事実を確認した上で、明治35年に、利根川と渡良瀬川を大改修し、渡良瀬川の下流の沿岸に洪水防止のため遊水池を作る計画を発表しました。


埼玉県の河辺村などが拒否したため、栃木県の谷中村が遊水池の候補地になり、強制的に立ち退かされることになったのですが、このことについて、菅井は次のように書いています。


「(政府のこの遊水池計画が)あたかも実効あるもののように宣伝されたことから、遊水池設置の犠牲になる谷中村とその周辺以外の農民は、政府の治水計画に乗ぜられていったのだった。まさに、鉱毒問題の治水問題へのすりかえ、あるいは転換ともいうべき事態となったのである」


農民は「政府の宣伝に乗った」わけでもなく、「政府の治水計画に乗ぜられた」わけでもないと、素直に受け取ればいいのに、なぜ菅井はこのように判断したのでしょう。農民はそんなに馬鹿なのでしょうか。そんなはずはありません。自分で考える能力をもっているはずです。実際に谷中村の遊水池計画は成功し、その後洪水は起こらなくなりました。


鉱毒の被害もなくなり、田畑は回復しましたから、遊水池化は「治水問題へのすりかえ」ではありません。
ですから、被害農民の判断は何一つ間違ってはいません。菅井が勝手に「鉱毒問題の治水問題へのすりかえ、あるいは転換」と言っているだけです。