東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・39 | 足尾鉱毒事件自由討論会

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・39

「打ち続く鉱毒・洪水被害」があったと説明した直後に、菅井は突如「農業生産が回復する」と書くのですから驚きです。引用しましょう。


「そうした状態にあるとき(つまり、打ち続く鉱毒被害があったとき)、明治35年夏の大洪水が、鉱毒に侵されていない大量の山土を鉱毒被害地に運んできた結果、鉱毒被害は希釈拡散され、明治35年の秋作、翌36年の夏作については、ある程度まで農業生産の回復を見るところとなり、農民の間には鉱業停止要求よりも農業生産を安定化するための治水を求める声が高まった」


著者菅井の嘘を明らかにしましょう。


『田中正造全集・別巻』にある年表を見ると、渡良瀬川の洪水は、明治30年9月、31年6月と9月の後、32、33、34年の3年間はありませんでした。ですから、「打ち続く鉱毒・洪水被害」は事実ではありません。


明治35年8月には渡良瀬川に洪水が発生し、9月には「関東大洪水」と記してありますから、菅井の言う通りですが、いったい洪水が「大量の山土」を川の沿岸に運んでくるなどという自然現象があり得るでしょうか。あり得ません。


なぜ彼がこんなおかしなことを書いたかといえば、それは田中正造の作り話を本当だと信じたからです。
『田中正造全集・別巻』の年表は、「明治36年10月、被害地の稲豊作」と記し、「10月14日から11月14日まで、正造が<被害地豊作の実況>などと題して8回の演説をした」ことを記述しています。


さらに、全集をよく見てみれば、正造はこの豊作の原因を、この時の洪水で「渡良瀬川本支流水源の諸山岳広く崩壊したため、ほとんど50年分の山土を被害激甚地に布置して古い毒土を覆った」とか、「南北10里の山崩れがあって新しい土が数尺一時に来た」とか、「山土が天然の新肥料になり、平常の5倍の豊作になった」とかPRしています。


いずれもあまりにも馬鹿げた話で、まともな人なら到底信じないでしょう。当時の農民は誰一人そんなことを言っていません。しかし、田中正造を神格化してしまった学者や研究者は全く疑っていないのです。


それに、正造が「平常の5倍の豊作になった」というのに、菅井が「ある程度まで農業生産の回復を見るところとなり」と説明しているのもおかしな話です。


そもそも田畑の回復は、正造が天皇に直訴した明治34年にはすでに明確に記録されています。ですから、明治36年からの回復説自体が成立しません。


「栃木県久野村の稲はかなりの作柄になっていた」(明治34年10月12日付け『万朝報』)、「被害地も、激甚地を除くほかは極めて豊作」(同年同月6日付けの『朝日新聞』)等の新聞記事の他、川俣事件の裁判での農学博士・横井時敬による鑑定書(明治34年10月提出)も、かなりの水田で反当り2石以上の収穫を上げている事実を報告しています。