東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・38 | 足尾鉱毒事件自由討論会

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・38

この本の第9章以下は菅井が執筆していますが、彼は、明治政府の第2次鉱毒調査委員会が、渡良瀬川の洪水防止対策として下流に遊水池をつくること、その第一候補地として埼玉県の利島・川辺の二つの村を選んだこと、しかし、猛烈な反対運動にあったためこれを諦めて、対岸の栃木県谷中村に決めたことなどを説明します。


田中正造は、その結果谷中村を本拠地にして以後政府と全面的に対決する生涯を送るわけですが、それまで正造に従って積極的に公害反対運動をしてきた農民活動家たちは、すべて正造から離れていきました。
以上が歴史的事実ですが、このことに関して菅井は次のように説明しています。


「利島・川辺両村および谷中村周辺の有志を除き、大部分の農民活動家たちは、谷中廃村反対運動から遠ざかっていった。今や、この他は東京の言論人、宗教家、社会主義者、国会議員時代の正造の同志の一部がいただけだった。渡良瀬川沿岸の活動家たちはどうしたのか」


「大部分の活動家たちは、打ち続く鉱毒・洪水被害のために生活困窮に陥り、運動する余力を失ってしまっていた」


これは歴史の現実を無視した、完全な虚偽説明です。


なぜなら、鉱毒防止工事の成功で田畑は元に戻っていたので、この時に「打ち続く鉱毒・洪水被害」などはありませんでしたし、したがって、活動家たちが「生活困窮に陥り」、「運動する余力を失う」はずなどないからです。


そもそも、このような運動は、生活困窮に陥るほどその反発で強力になるものです。明らかに菅井は、現実を無視して嘘をいっています。農民のエネルギーというものを彼はまるで分かっていないようです。