菅井益郎の回答② | 足尾鉱毒事件自由討論会

菅井益郎の回答②

小学館の『日本歴史大事典』には、「予防工事は技術的にも不完全だったので被害は続き」とあったので、「それはおかしい」と私が指摘したのに対し、菅井氏は、小学館編集部を通じて以下のように反論してきました。


「今でも鉱毒被害の続く太田市の毛里田に行って、鉱毒根絶同盟会の人たちに対して、古河は明治30年段階で鉱毒対策を完全にやった、その後の被害は予防工事以前のものだ、などといったら厳しく問われるでしょう。もちろん渡良瀬川沿岸の市町村の被害地に行けばどこでも同じことになるでしょう。どうも彼は<古河市兵衛翁伝>や古河鉱業の<操業100年史>など、古河関係の書の記述だけを信用しているようですが、これでは公害の本質は理解できないでしょう。」


「もし仮に100パーセント氏の主張を認めて、予防工事後の被害がそれ以前の残渣だとしても(さすがに古河も今日ではこんな主張はしていませんが)、被害に対する損害賠償をしていないことは、非難されて当然です。砂川氏は、1974年の渡良瀬川鉱毒根絶毛里田期成同盟会との公害等調整委員会における調停で、初めて古河は被害原因が足尾銅山の操業にあることを認めたことを知らないのだと思いますが、それにしても古河市兵衛を再評価しようとするあまり、公害問題でもっとも大事な被害民の主張に耳を傾けないということは大いに問題ですね。」


菅井氏は、足尾鉱毒事件の70年後に起きた公害事件を持ち出してきて、明治30年の公害防止工事は効果が無かったと言っているのです。
なんというひどいすりかえでしょう。
太田市毛里田の公害とは、、ずっと後年につくられた源五郎沢堆積場が決壊して、昭和33年に6千ヘクタールの水田が汚染された事件です。
菅井氏は、二つの異なった公害を無理に一緒にして、砂川の言うことは間違いだと説得しようとしているわけです。
「損害賠償をしていないから非難されて当然」と彼は述べていますが、古河市兵衛は巨額の賠償金を被害民に支払っています。
市兵衛は当然、加害者責任を認めていたわけです。にもかかわらず、1970年代に古河鉱業が加害者責任をすぐに認めなかったことを理由に、市兵衛を評価するのは間違いだと、菅井氏は断じているのです。こんなごまかしがありますか。

「予防工事後の被害は、それ以前の残渣」という専門家による政府の調査結果を、菅井氏は否定するのが常識、古河鉱業でさえそうしている、といっています。しかし、『田中正造』(岩波新書)の著者・由井正臣は明確に肯定しています。
菅井益郎の私に対する反論は、ごまかしとすり替えとうそばかりで、何の説得力もないではありませんか。