足尾鉱毒事件自由討論会

みなさんは、「足尾鉱毒事件」について「政府も加害者も何もしてくれなかったので田中正造が天皇に直訴した」と学校で教わったと思います。
しかし、本当はどうだったのでしょうか。私(砂川幸雄)が書いた『直訴は必要だったか――足尾鉱毒事件の真実』(勉誠出版 )をぜひ読んでください。そして、あなたの意見を書き込んでください。反対意見は特に歓迎します。
ここを自由な討論の場にしたいと思います。

著者: 砂川 幸雄
タイトル: 直訴は必要だったか―足尾鉱毒事件の真実
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東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・57

菅井の説明によれば、毛里田村の公害反対運動を促進する同盟会は、1972年に積極的な行動を展開します。


1972年3月、同会は政府の中央公害審議委員会(中公審)に対し、第1次提訴として4億7007万円の損害賠償の調停を申請しました。


これを受けて古河側は、農民側の主張を全面的に否定した次の内容の意見書を中公審に提出します。


1.日本最大の銅山である足尾銅山は、日清・日露の両戦争、第2次世界大戦、さらには戦後復興期にあって、国家経済発展の原動力となって、国家の命令に従って増産に応えてきた。


2.渡良瀬川大洪水による1890年代の鉱毒発生以来、巨額の費用を投じて公害防止対策に努めてきた。


3.平均銅濃度を0.06ppmとした水質基準は守っており、渡良瀬川の鉱毒汚染は存在しない。


4.農産物の減収の原因が足尾銅山の操業にあるかどうかは、疑問である。


5.これまでの被害については、その都度農家に補償してきたので、今さら再び支払う必要はない。


第5項目については、1953年12月に、古河が待矢場両堰土地改良区に800万円の寄付をするという和解契約が結ばれましたが、その際に、「契約締結後には新たな補償はしない」と約束していたことをいっています。


次いで同盟会は、1972年5月、第2次分として32億3227万円を、8月には第3次分として4503万円の損害賠償の調停を申請しました。
最終的には、申請人973人、被害面積470ヘクタール、請求金額39億138万円ということになりました。


この説明を読めば、この公害の被害者たちは、水俣・カネミ・イタイイタイ・四日市その他の公害の被害者と比較すれば、相当に恵まれているということがわかります。古河は無茶なことは言っていないし、中公審で調停できるケースになっているからです。


東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・56

群馬県山田郡毛里田村の公害に関して、菅井はさらに、簡潔に箇条書きすれば、次のように解説していきます。


1.0.06ppmという水質基準は、恩田の主張どおりあまりにもゆるすぎた。


2.桐生市水道局の検査では、1969年の5,6月にはこの基準の6倍から10倍の砒素が検出された。


3.1970年においては、基準の4、5倍の砒素が検出された日は、1ヶ月で十数日もあった。


4.1971年には、毛里田地区産のお米が、カドミウムに汚染されるという問題が起こった。


5.恩田のあとに同盟会の2代目の会長になった板橋明治等は、この年の6月、古河鉱業に対して1戸当り1200万円、1100戸分の鉱毒被害補償として合計132億円と、親子3代にわたる生活補償を要求した。しかし、古河鉱業は、農民側の要求を全く無視した。


6.同年8月31日、同盟会の板橋会長等は、80年間の農作物被害の補償として総額120億円を請求することにし、発足したばかりの環境庁の大石武一長官に協力を要請する陳情を行った。


7.1972年、同盟会は古河鉱業に120億円の損害賠償を要求した。しかし、同社は「この農民側の少なすぎる要求を一蹴したばかりか、カドミウム汚染米に責任があることまで否認したのである」


彼が120億円の損害賠償を「農民側の少なすぎる要求」と言ってのけていることに、そのお粗末さがよく現われています。


学者である以上、農民側の言うことを鵜呑みにするだけでなく、企業側の事情もよく検討して客観的に事実をとらえる必要があるのに、そんな気配は全く見られません。


もし、企業側が被害者側の要求に従って無理に賠償金を支払い、それで会社が潰れたら、その会社のおかげで食べている人たちはどうなるのでしょう。

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・55

菅井は、公害の歴史ではほとんど問題にされないこの公害について詳しく書いていますが、おそらくほとんどの読者は、これを読んで退屈するだろうと思います。
彼の説明を出来るだけ手短かにまとめて、その概要を紹介します。


1.1962年12月、政府は、恩田正一を(公害反対)同盟会の会長を辞任することを条件に、水質審議会の第6部会(渡良瀬川部会)の専門委員に任命した。


2.この部会の席上、恩田は、加害企業の社長が審議会の委員になっていることに憤慨して、「泥棒を審判官にするのか」と抗議した。そのため、加害企業の社長は委員を辞任した。


3.1964年10月、同盟会に所属する600名の農民たちは上京して、「鉱毒汚濁の原因究明」を関係官庁に陳情した。


4.しかし、1967年2月、経済企画庁の役人らは、渡良瀬川の銅の含有量を0.06ppmとする水質基準案を作成し、政府は、同盟会の幹部に対し、0.06ppm以下での水質規制の早期制定を陳情させることに成功した。


5.1968年3月6日、水質審議会の第6部会は、恩田委員の強硬な反対論を押し切って、群馬県大間々町高津戸での規準を0.06ppm、足尾銅山の排水基準を足尾町のオットセイ岩地点で1.5ppmと決定した。


6.これらは、企業にとって至れり尽くせりの措置であった。


政府の公害対策が企業寄りだといって批判しているわけですが、政府が公害の被害者である少数の農民よりも、大多数の国民が支持する大企業の側につくのは当然のことです。
数の多いほうが有利であるのが世間の現実だということを、よく知るべきだと思うのです。


被害者でなければ、普通は農民もまた有名な会社に自分の子供を就職させたいと思っており、企業側を支持する人間だということができます。


東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・54

足尾鉱毒事件の再現と著者菅井のいう、群馬県山田郡毛里田村の公害が発生したのは、全国で次々に発生した公害事件が、重大な社会問題になった時期でした。

そして、本州製紙江戸川工場の廃水タレ流し事件を契機に、日本政府がそれまでの懸案だった水質2法を、この年(1958年)の12月に制定しました。
この2つの公害防止法とは、「公共用水域の水質保全に関する法律」と「工場排水の規制に関する法律」のことです。
菅井は当時の公害の様子を次のように解説しています。

「特にひどい産業公害は、紙、パルプ工場の廃液による河川や海の汚染で、国策パルプによる石狩川の汚濁、三菱製紙による阿武隈川沿岸の汚濁、兵庫県高砂市周辺の汚濁、兵庫パルプによる加古川沿岸の汚濁、西日本パルプによる高知県浦戸湾一帯の汚濁、大昭和製紙など大小の製紙工場が集中する富士市田子の浦一帯の汚濁など、全国各地でパルプ工場の廃水による公害が発生していた」


「チッソ水俣工場の廃水に原因する水俣病、三井金属神岡鉱山の廃水によるイタイイタイ病などの公害も社会問題化しはじめていた。もし、浦安町の漁民が本州製紙江戸川工場の公害に対して直接行動を取らなかったら、この水質規制2法案の成立は、疑いなくもっと先に延期されたことであろう」


つまり、菅井は、足尾鉱毒事件の再現は公害が日常化した時期にあった、と説明しているわけで、重大な公害ではないのだと言っているのです。

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・53

前回は、1958年5月30日に足尾銅山の廃棄鉱石の堆積場の決壊によって、渡良瀬川沿岸に新たな公害が発生したことに触れました。


この本の著者菅井益郎は、その被害地の群馬県山田郡毛里田村(現太田市毛里田)の農業協同組合の組合長、恩田正一の行動を次のように書いています。


「渡良瀬川から取り水している群馬県側の桐生、太田、館林の三市と山田、新田、邑楽の三郡の農民や行政の代表約150人を引き連れて足尾銅山に行き、抗議行動を行った。決壊11日後の6月10日のことであった」


その後の経過を、菅井はさらにこう記述します。


「8月2日には、群馬県東毛三市三郡渡良瀬川鉱毒根絶期成同盟が結成され、恩田は会長に選ばれた」


「農民たちの抗議に対して、古河鉱業側は、鉱山局の指導に従った設備であるから決壊が起こってもこちらには責任はないと開き直り、農民に対して一片の誠意すら見せようとはしなかった」

このように書いていますが、農民側の立場から一方的に古河鉱業を批判しています。これでは事実かどうかは分かりません。それに、なぜ、足尾銅山のどちらかといえば小さな公害問題を、強調しなければならないのでしょう。


そもそも、足尾の公害が問題になった明治時代には、どの銅山にも公害は発生していたのです。
しかし、学者やマスコミは、足尾のことだけを取り上げ、他の鉱山の公害のことはは全く書いていません。


私は、明治の新聞の『萬朝報』(明治42年8月28日)で、次の内容の記事を見つけました。


「足尾、別子の鉱毒は天下の問題になった。それは雄弁な論者があったためである。小坂のことはなお知る人が少ない。しかも、実は別子の毒量は小坂の半分強で、足尾はさらに別子よりも少ないのである」


この記事に驚いたので、私は、足尾銅山のオーナーだった古河市兵衛の伝記に、住友の別子銅山(愛媛県)と藤田組の小坂銅山(秋田県)と、藤田組にいた久原房之助が起こした日立銅山(茨城県)について、それぞれの公害を調べてその実態を書きました。


その結果、公害に対する足尾銅山の対応が、他の鉱山より誠実で、いかに立派だったかということを知ったのです。
それなのに、学者やマスコミは、足尾の公害だけを一般の人に知らせ、悪口を書いているわけです。何とも不公正な話ではありませんか。


東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・52

菅井益郎はまた、日本経済の発展にとって重要な技術革新さえ、公害の原因になったと勝手な理屈をつけて、政府や大企業を批判します。


公害の原因は、公害防止対策の不備にあるので、技術の進歩にあるのではありません。技術の進歩を否定すれば、日本の国家は経済力を失い、国民の幸福は得られません。ですから、明治以降、日本国民は常に技術の進歩を求めてきたはずです。


足尾銅山を経営する古河鉱業は、1956年2月に、自溶炉と称する画期的な溶鉱炉を完成させました。これは、銅の鉱石に含まれる硫黄分が発生する熱で、鉱石を自ら製錬する溶鉱炉のことです。
この事実を紹介したうえで、菅井益郎は次のように書くのです。


「しかし、製錬施設のこの一新によって、それまで潜在化していた鉱毒問題が、突如顕在化したのであった」


これは、明らかに事実と違います。なぜなら、彼自身が「鉱毒問題が、突如顕在化した」経緯を、以下のように説明しているからです。


「自溶炉が完成して2年後の1958年5月30日、足尾銅山の14の堆積場のうちの一つ、源五郎沢堆積場が決壊し、約2000立方メートルの鉱泥が、渡良瀬川に流出し、6000ヘクタールの水田に直接被害を与えた。この年は降雨も少なく、その日も雨など降っていなかったので、これは全面的に古河鉱業側の管理のずさんによるものであった」


「被害は、待矢場両用水の取入れ口がある毛里田村(現太田市毛里田)を最激甚地として、広大な地域におよんだ」


つまり彼は、新たに起こった鉱毒問題の原因を、自分で書いたばかりの「自溶炉と称する画期的な溶鉱炉」のことを無視して、「全面的に古河鉱業側の管理のずさんによるもの」と説明しているわけです。


何とまあわけの分からない説明のしかたなのでしょう。唖然とするほかありません。 


東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・51

菅井益郎の歴史認識は、反政府、反大企業に貫かれています。

しかし、どうでしょう。日本国民の大部分は、政権与党を支持し、有名大学を卒業して大企業に就職することを望んでいるのではないでしょうか。


ですから、彼の立場は国民一般とは反対で、客観性を欠き、偏向していると言うことが出来ます。


予想外に大きな台風が来れば、たとえ河川改修が行われていたとしても、被害を防ぐことは出来ないはずです。


ところが、菅井益郎は、原因を台風の規模の大小に求めずに、政府の欠陥に求めるような説明をするのです。
台風の猛威と河川の防災対策と被害の因果関係とを、どのように判断するのでしょう。判断は不可能なはずです。
自分を何者だと思っているのでしょう。引用しましょう。


「1947年9月、カスリン台風にともなう豪雨によって、渡良瀬川と利根川流域は大洪水に襲われたのである。・・・渡良瀬川の大出水を合流した利根川は、江戸川流域を本流として流れ下り、莫大な損害を発生させたのである」


「渡良瀬川は、1948年9月(アイオア台風)にも、1949年9月(キティ台風)にも出水し、大きな被害を出した」


東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・50

菅井益郎は、歴史的に何の意味もない動きを、大戦後についてもまたつづります。引用します。


「1946(昭和21)年5月、群馬県山田郡毛里田村(現太田市)の小暮完次は、東毛地方鉱毒根絶期成同盟会を組織し、古河鉱業にたいして石灰や肥料を要求した。・・・ただし、この運動は数年のうちに消滅してしまった」


「しかし、足利農民組合は、独自に古河鉱業と交渉して石灰などの現物供与を実行させたのである」


「1946年6月、栃木県は鉱毒対策小委員会を設置し、鉱毒被害の実態、土壌分析、石灰の使用調査をおこなうとともに、石灰や肥料の配給をおこなった。また、古河鉱業に徹底的な鉱毒流出防止対策と、被害農民へ損害補償をおこなうよう要望した」


この説明を読む限り、加害者の古河鉱業も行政当局も、被害農民にたいして、この当時としては信じられないぐらいまともな対応をしていることが分かります。


足尾鉱毒事件から既に50年近くたっているので、汚染物質が流出していたとしても不思議ではありません。しかし、被害の程度はそれほど大きくはないようです。


これより10年後、20年後に全国で次々と公害事件が発生しますが、そのときの加害企業や行政側の対応と比較すれば、格段の差があることがわかります。


にもかかわらず、菅井は悪意を持ってこの事実を書いているのです。何とも貧しい限りです。


東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・49

渡良瀬川は、公害問題とは無関係に昔から洪水の多い川です。


田中正造たちも、「3年に1度くらいの割合で洪水があったために、天然の肥料に恵まれる結果になった」と何度もこの事実を強調しています。


それなのに、菅井は昭和の10年代になってからの洪水をたくさん並べて、農民たちがたびたび河川の改修工事を要望したという事実を並べるのです。
このことと明治の足尾鉱毒事件とは何の関係ないはずではありませんか。


引用しましょう。農民たちが洪水対策を求めたにすぎないことが、よくわかります。


「日中戦争開始後も下流の農民の運動は続き、1938年9月の渡良瀬川大洪水、39年6月の増水によって激甚な鉱毒被害が発生したため、群馬県に桐生市、山田郡、待矢場両堰普通水利組合の農民たちは、渡良瀬川改修群馬期成同盟会を結成して、栃木県足利郡の農民などとともに、内務省に対して水源涵養と渡良瀬川の再度の改修要求を提出した」


「農民たちの陳情活動は翌1940年11月まで22回も行われ、ようやく同年12月に、15年継続で800万円の改修予算が成立したのであった。その後も水源地帯の砂防工事を求める陳情や、渡良瀬川改修促進の請願が、くり返し農民たちから提出された」


東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・48

著者菅井は、古河グループが他の企業グループよりも公害がひどかったと強調するために、自然条件を無視して次のように説明します。


「三井、三菱、住友、安田の4大財閥と古河とさしたる違いはなかったかもしれない。しかし、その発展の犠牲に供された人々の生活と自然とが後日まで白日の下に曝け出されていた例は他には見られない」


これは全くデタラメな嘘にすぎません。

まず三菱は、少なくとも昭和の初期までは、大きな公害事件は起こしてはいないはずです。安田は銀行と保険会社以外経営していないので、公害とは当然無関係です。


「その発展の犠牲に供された人々」は、住友の別子銅山の公害を調べれば、古河よりもはるかに多く、そして犠牲が長期にわたったことが分かります。

どうぞ自分で調べてみてください。


藤田組の小坂銅山も、後に日立グループに発展する日立鉱山も、住友の別子銅山も煙害ですから、製錬所が稼動している限り続きます。


それに反して古河の足尾銅山は、洪水があるときに、冠水した部分だけ田畑が被害を受けるのです。規模が全く違うのです。


しかも、古河は、加害者責任をすぐに認めて示談交渉に応じ、示談金を払い、政府の命令に従って公害防止工事を履行し、その他の会社よりも短期に問題を解決しています。

これも自分で調べてみてください。


「自然を後日まで白日の下に曝け出した」というのは、足尾の山を禿山にしたことを意味しているのでしょうが、いくら植林をしても樹が育たなかったという事実を無視しています。


この山の土壌にその原因があるのですから、自然条件の違いを考えない的外れな非難にすぎません。

明治以来、日本という国が欧米先進国に追いつくために、必死に工業化を図ってきたことを菅井は全く考えず、ただただ、政府と企業は悪で被害農民は善だと決め付けて自己主張しているだけです。


何とまあ単純な頭脳の持ち主なのでしょう。

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